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サウグル

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サウグル(モンゴル語: Sauγur,? - 1251年)とは、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。『元史』における漢字表記は紹古児(shàogŭér)。

概要

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サウグルはメルキト部の出身者で、チンギス・カンとともにバルジュナ湖の濁水を飲んだ、いわゆる「バルジュナト」の一人として知られていた[1]。サウグルは主に金朝との戦いで活躍し、チンギス・カンによる第一次金朝遠征では信安を攻撃し、河西方面の平定に貢献した。この時の功績によって洺磁等路のダルガチとされた。第2代皇帝オゴデイの治世では、済南大名・信安の軍馬を率いてジャライル部の国王タスに従い、金朝の征服に貢献した。第4代皇帝モンケが即位した1251年に亡くなった[2]

サウグルの死後は、息子のバイドゥ(拜都)、孫のクトゥク(忽都虎)を地位を継承した。クトゥクはクビライに仕えて南宋遠征李璮の乱討伐などに貢献し、占城交趾といった現ベトナム方面への出兵にも加わった[3]

脚注

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  1. ^ 村上1972,209頁
  2. ^ 『元史』巻123列伝10紹古児伝,「紹古児、麦里吉台氏。事太祖、命同飲班朱尼河之水、扈従親征。已而従破信安、略地河西、賜金虎符、授洺磁等路都達魯花赤。領軍出征、復従伐金、破河南。太宗命領済南・大名・信安等処軍馬、復従国王答石出征。歳辛亥、卒」
  3. ^ 『元史』巻123列伝10紹古児伝,「子拜都襲。拜都卒、子忽都虎襲、移睢州。従世祖渡江、攻鄂、還鎮恩州。中統三年、従征李璮有功、尋命修立邳州城、領兵鎮両淮。十一年、従丞相伯顔渡江、有戦功。又従参政董文炳沿海出征、還、鎮嘉興、行安撫事。十二年、加昭勇大将軍、職如故。十四年、授嘉興路総管府達魯花赤、尋升鎮国上将軍・黄州路宣慰使、尋罷黄州宣慰司、復旧任。十六年、改授浙西道宣慰使、加招討使、仍鎮国上将軍。奉詔征占城、以其国降表・貢物入見、帝嘉之、厚加賞賚。二十四年、従征交趾。明年還師、授邳州万戸府万戸。三十年、歿于軍」

参考文献

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  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 元史』巻123列伝10紹古児伝