サハーナ・プラダン
サハーナ・プラダン(ネパール語: साहना प्रधान、英: Sahana Pradhan、1932年6月17日 - 2014年9月22日)はネパールの政治家。元外務大臣。女性。ネパール統一共産党からコイララ内閣に入閣。党常任委員会委員。ネパール制憲議会議員(比例代表区)。冷静沈着で知られる。
経歴
[編集]カトマンズのネワール族出身。幼少時をビルマ(ミャンマー)で過す。
ネパール共産党の初代総書記であったプシュパ・ラール・シュレシュタと結婚。1978年に夫が死亡すると彼女自身がネパール共産党プシュパラール派(毛沢東思想の影響を受けていた)を指導。より穏健な方向に導く。1987年プシュパラール派はネパール共産党マンモハン派(マン・モハン・アディカリが党首)と合同、ネパール共産党マルクス主義派を創設する。
1990年の民主化運動(ジャナ・アンドラン)のときにはネパール共産党マルクス主義派を代表して共産党系の政党の共闘組織「統一左翼戦線」に参加、議長に就任するが。運動が本格化する前に逮捕されてしまう。最終段階で釈放され、政党代表の一人として政府との交渉を行い、パンチャーヤト制の廃止を強く訴える[1]。
1991年ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(統一共産党)の結成に参加。1998年、統一共産党を離脱、ネパール共産党マルクス・レーニン主義派(CPN-ML)議長。2002年、マルクス・レーニン派は統一共産党に復帰。2003年、党中央委員に復帰。
2007年、外相として来日、高村正彦外相と会談。日本の国連常任理事国入りを支持した[2]。
2008年4月10日の制憲議会選挙では比例代表区名簿順位2位で当選している。
ネパール共産党毛沢東主義派などから初代大統領に推す声があったが、統一共産党がマーダブ・クマール・ネパール元総書記に固執したため、実現しなかった。
2014年9月22日、脳出血のためカトマンズの病院にて86歳で死去[3]。
脚注
[編集]- ^ 小倉清子「王国を揺るがした60日」亜紀書房
- ^ 外務省、高村・プラダン会談
- ^ “Sahana Pradhan dies: loss to Nepal communist movement”. Telegraph Nepal. 2017年6月18日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。