サム・ナロン (捕手)
ピッツバーグ・パイレーツ時代1960年のパレード用の上着 | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ノースカロライナ州ミドルセックス[1] |
生年月日 | 1913年8月25日[1] |
没年月日 | 1996年12月31日(83歳没)[1] |
身長 体重 |
5' 10" =約177.8 [1] cm |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
初出場 | 1935年9月15日[1] |
最終出場 | 1943年9月30日[2] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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サム・ナロン(Sam Narron)として知られるサミュエル・ウッディ・ナロン(Samuel Woody Narron、1913年8月25日 - 1996年12月31日)は、メジャーリーグベースボールに所属したアメリカ合衆国のプロ野球選手、コーチ。
甥に捕手としてプレーし、コーチ、監督を務めたジェリー・ナロン[1][3]と、コーチを務めたジョニー・ナロン[3]、孫に投手としてプレーしたサム・ナロンがいる[4]。
1934年バイ=ステート・リーグのマーティンズビル・マニュファクチャーズでプレーした後、1935年に外野手としてセントルイス・カージナルス傘下のオールバニ・トラベラーズに入団[5]。この年、メジャーリーグに昇格しセントルイス・カージナルスで7試合に出場、捕手として先発出場も果たした[2]。1936年以降は捕手としてマイナーリーグで出場を続けた[5]。1942年にメジャーへ再昇格、1943年にはメジャーに在籍し続けワールドシリーズにも出場している[2]。そしてこれが最後のメジャー出場となった[5]。
1944年に一度引退した後、1948年までマイナーでプレーを続けた[5]。最終年となる1948年には、監督兼任も経験している[5]。その後ブランチ・リッキーに重用され、1949年にはブルックリン・ドジャースでブルペンキャッチャーとしてワールドシリーズに進出[6]、1951年にピッツバーグ・パイレーツへ移籍した後1964年までブルペンコーチとして在籍、この間1960年にワールドシリーズでチームが勝利している[7]。
1996年12月31日、ノースカロライナ州ローリーにて死去[6][2]。
成績
[編集]メジャーリーグでは捕手としては通算6試合(先発2試合)の出場記録が残るのみで、多くの出場は代打としてのものであった[2]。3年間で24試合に出場、通算打率.286、28打数8安打1打点1四球の記録を残している[2]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g “Sam Narron #32”. メジャーリーグベースボール. 2020年8月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Sam Narron”. Baseball-Reference. 2020年8月2日閲覧。
- ^ a b Ringolsby, Tracy (2014年3月24日). “Oh, Brother! Narrons Living Baseball Dream Together”. MLB.com. 2018年5月18日閲覧。
- ^ Byron Kerr (2012年2月15日). “Lefty Sam Narron leaves baseball as a player to become pitching coach for Auburn”. Mid-Atlantic Sports Network. 2020年8月2日閲覧。
- ^ a b c d e “Nam Sarron”. Baseball-Reference. 2020年8月2日閲覧。
- ^ a b AP通信 (1997年1月5日). “Sam Narron, Catcher and Coach, 83 [obituary”]. ニューヨークタイムズ 2018年5月18日閲覧。
- ^ “1960 Pittsburgh Pirates Statistics”. Baseball-Reference. 2020年8月5日閲覧。