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サルキス・アンバルツミャン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サルキス・サアコヴィチ・アンバルツミャン
Саркис Саакович Амбарцумян
Սարգիս Սահակի Համբարձումյան
フリチョフ・ナンセン率いる国際連盟代表団と
中央がアンバルツミャン、その左にナンセン
生年月日 1870年
出生地 ロシア帝国エリザヴェトポリ県ロシア語版シュシャ郡シュシャロシア語版
没年月日 1944年
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
出身校 モスクワ大学医学部ロシア語版卒業
前職 医師
所属政党ロシア社会民主労働党→)
ボリシェヴィキ
子女 ルーベン (ru)[1]

ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
中央執行委員会議長
在任期間 1923年1月15日 - 1925年4月11日

在任期間 1922年2月2日 - 1925年6月23日

アルメニア社会主義ソビエト共和国
人民委員会議議長
在任期間 1925年6月23日 - 1928年3月22日
中央執行委員会議長 アルタシェス・カリニャン[2]

アルメニア社会主義ソビエト共和国
保健人民委員
在任期間 1920年 - 1922年
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サルキス(サコ)・サアコヴィチ・アンバルツミャンロシア語: Саркис (Сако) Саакович Амбарцумян1870年 - 1944年)、民族名サルキス(サコ)・サハキ・ハンバルツミャンアルメニア語: Սարգիս (Սաքո) Սահակի Համբարձումյան)は、アルメニア人のボリシェヴィキ。父称はイサーコヴィチ (Исаакович)[3]イサハキ (Իսահակի) とも[1]

生涯

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1870年ロシア帝国エリザヴェトポリ県ロシア語版シュシャロシア語版[4]の小作農の家庭に生まれた[5]1902年にデモに参加して逮捕され、翌1903年モスクワロシア社会民主労働党に入党するも[4]、再び逮捕され、最終的にバクーに追放されている[1]1904年には党バクー委員会メンバーとなり、翌1905年モスクワ十二月蜂起ロシア語版にも参加した[1]1909年モスクワ大学医学部ロシア語版を卒業し[5]、翌1910年から1917年まではシュシャで医師として活動していた[4]。この間もダシュナク党とのイデオロギー闘争を行い、1917年9月から10月頃にボリシェヴィキとなった[5]1918年には三度目の逮捕を受けている[4]十月革命後にはカラバフロシア語版で活動した[1]

アルメニア社会主義ソビエト共和国の成立後は1920年から1922年にかけて初代保健人民委員を務め[6]、1922年にはアルメニア共産党英語版中央委員となる[5]。同年2月2日から1925年6月23日にかけてアルメニア共和国中央執行委員会議長を、1923年1月15日から1925年4月11日にかけてザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国中央執行委員会議長を務める[4]。同年6月23日から1928年3月22日まではアルメニア共和国人民委員会議議長を務め[4]、その任期中にはジョラゲト水力発電所英語版を始めとした数々の水力発電所の建設、そしてザンゲズルロシア語版銅山 (ru) とアラヴェルディ英語版銅精錬所の復旧により、経済復興の礎が築かれている[7]

その後、1929年から1944年に死去するまでをモスクワで過ごした[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e Հայկական Համառոտ Հանրագիտարան. Vol. 4. Երևան: Հայկական Հանրագիտարան հրատարակչություն ՊՈԱԿ. Վիկտոր Համբարձումյան, Կոստանդին Խուդավերդյան. 2003. p. 76.
  2. ^ Высшие органы государственной власти Армянской ССР”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年3月6日閲覧。
  3. ^ Համբարձումյան, Սարգիս Իսահակի, 1880-1944 (Personal Name)”. Հայաստանի Ազգային Գրադարան英語版. 2018年4月16日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g Амбарцумян Саркис (Сако) Саакович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年3月6日閲覧。
  5. ^ a b c d АМБАРЦУМЯН // Аконит — Анри. — М. : Советская энциклопедия, 1926. — (Большая советская энциклопедия : [в 65 т.] / гл. ред. О. Ю. Шмидт ; 1926—1947, т. 2)
  6. ^ Պատմություն”. Հայաստանի Հանրապետության առողջապահության նախարարություն. 2018年3月6日閲覧。
  7. ^ Саркис Амбарцумян”. Правительство Республики Армения. 2018年3月6日閲覧。
公職
先代
アレクサンドル・ミャスニコフ
連邦会議議長
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国中央執行委員会議長
アルメニア共和国代表
1923年1月15日 - 1925年4月11日
次代
セルゲイ・ハノヤン
先代
なし
アルメニア社会主義ソビエト共和国中央執行委員会議長
1922年2月2日 - 1925年6月23日
次代
アルタシェス・カリニャン
先代
セルゲイ・ルカシン
アルメニア社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長
1925年6月23日 - 1928年3月22日
次代
サアク・テル=ガブリエリャン
先代
なし
アルメニア社会主義ソビエト共和国保健人民委員
1920年 - 1922年
次代
セミョーン・ラザレフ