コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

サルヴァトーレ・アンティボ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
獲得メダル

サルヴァトーレ・アンティボ
イタリアの旗 イタリア
陸上競技
オリンピック
1988 ソウル 男子 10000 m
ヨーロッパ陸上競技選手権大会
1986 シュトゥットガルト 男子 10000m
1990 スプリト 男子 10000m
1990 スプリト 男子 5000 m

サルヴァトーレ・アンティボ(Salvatore Antibo、1962年2月7日 - )は、イタリアの陸上競技選手。1988年ソウルオリンピックの銀メダリストである。シチリア島パレルモ県アルトフォンテ出身。

経歴

[編集]

アンティボは、トラックの長距離種目を得意としたランナーで、ロサンゼルスオリンピックの10000mでは5位でゴール。しかし、この種目は同じイタリアのアルベルト・コバが金メダルを獲得したため、アンティボの活躍はコバに隠れてしまった。なお、この種目では当初2位でゴールしたフィンランドマルッティ・バイニオが薬物違反で失格となった[1]ため、アンティボは4位に繰り上がった。3位のケニアマイケル・ムスヨキとはわずか100分の4秒差で銅メダルを逃すこととなった。

アンティボは、2年後のヨーロッパ陸上競技選手権大会の10000mでは28分00秒25で、ステファノ・メイ、コバとともにイタリアが表彰台を独占したものの3位となった。

1988年ソウルオリンピックでも10000mに出場。世界記録に迫るハイペースでモロッコブラヒム・ブタイブが先頭を独走する中、アンティボはケニアのキプケンボイ・キメリと2位グループを形成。ラスト100mとなったところでアンティボがキメリを突き放し27分23秒55で銀メダルを獲得した。

1990年のヨーロッパ選手権では、5000m、10000mの2冠に輝く。10000mは自ら先頭を引っ張っていくレース。5000mでは最後の直線のスプリントで勝利するといった異なる戦いで勝利を収めた。

1991年の東京で行われた世界選手権では10000mに出場。優勝候補の一人と見られていた。アンティボはレース序盤からペースを変えたり積極的なレースを見せた。しかし、ケニアの選手がペースをあげると、すぐに先頭争いから脱落していった。実は、アンティボはレースの途中にてんかんの症状が出ていたということが後に明らかになった。

アンティボは、1992年バルセロナオリンピックの10000mでもメダルまであと一歩となる4位となっている。

自己ベスト

[編集]
  • 5000m - 13分05秒59 (1990年)
  • 10000m - 27分16秒50 (1989年)

主な実績

[編集]
大会 場所 種目 結果 記録
1982 ヨーロッパ陸上競技選手権大会 アテネ(ギリシャ) 10000m 6位 28分21秒07
1983 世界選手権 ヘルシンキ(フィンランド) 5000m 13位 13分40秒76
1984 オリンピック ロサンゼルス(アメリカ合衆国) 10000m 4位 28分06秒50
1986 ヨーロッパ陸上競技選手権大会 シュトゥットガルト(西ドイツ) 10000m 3位 28分00秒25
1987 世界選手権 ローマ(イタリア) 5000m - (q) DNS
1987 世界選手権 ローマ(イタリア) 10000m 16位 28分33秒77
1988 オリンピック ソウル(韓国) 10000m 2位 27分23秒55
1990 ヨーロッパ陸上競技選手権大会 スプリト(ユーゴスラビア) 5000m 1位 13分22秒00
1990 ヨーロッパ陸上競技選手権大会 スプリト(ユーゴスラビア) 10000m 1位 27分41秒27
1991 世界選手権 東京(日本) 10000m 20位 28分52秒41
1992 オリンピック バルセロナ(スペイン) 10000m 4位 28分11秒39
  • qは予選

脚注

[編集]
  1. ^ 日刊スポーツ. “元陸上選手が自伝でドーピングを告白”. 2013年11月10日閲覧。

外部リンク

[編集]