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サンクトペテルブルク条約 (1762年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サンクトペテルブルク条約(1762年)
サンクトペテルブルクの位置
署名 1762年5月5日
署名場所 サンクトペテルブルク
締約国 プロイセン王国ロシア帝国
主な内容 七年戦争講和条約
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サンクトペテルブルク条約(サンクトペテルブルクじょうやく、英語: Treaty of Saint Petersburg)は1762年5月5日プロイセン王国ロシア帝国の間で締結された、七年戦争講和条約

条約はプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していたピョートル3世の即位後に結ばれ、このブランデンブルクの奇跡でフリードリヒ2世はオーストリアとザクセンとの戦闘に集中できた[1]

条約の内容

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条約はロシア宰相ミハイル・ヴォロンツォフとプロイセン代表ヴィルヘルム・ベルンハルト・フォン・デア・ゴルツドイツ語版が署名した[2]。ロシアはスウェーデンとの和平交渉の仲介を約束し[2]、さらにロシア軍の全占領地をプロイセンに返還した[3]

その後

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フリードリヒ2世は和約に狂喜して、テ・デウムや祝宴を命じたという[4]。敵が一国減った上、ピョートル3世が対オーストリアの援軍1万8千を約束したからだという[5]。後のフベルトゥスブルク条約によりプロイセン、オーストリア、ザクセンの和平も成立した。条約の内容はほぼ現状維持であったが、プロイセンの大国化を象徴した結果となった[6]

ただ、ロシア国内では全占領地をプロイセンに返還したピョートル3世の過度なプロイセン贔屓への反発からクーデターロシア語版が起こり、皇后エカチェリーナ・アレクセーエヴナがエカチェリーナ2世として即位したが、プロイセンとの同盟関係は堅持されたため、条約締結から2年後、両国は防衛同盟を成立させた[7]

脚注

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  1. ^ Koch, Christopher W; Koch, Christophe Guillaumede (1839). The Revolutions of Europe. Whiltaker and Co. p. 147. https://books.google.co.uk/books?id=TACbHW0TYWYC 
  2. ^ a b St. Petersburg Peace Treaty”. 25 September 2011閲覧。
  3. ^ Seven Years' War. (1 July 2010). http://web.ebscohost.com/ehost/detail?sid=69cd734a-137b-43b7-842a-2ad2c0563e52%40sessionmgr113&vid=2&hid=122&bdata=JnNpdGU9ZWhvc3QtbGl2ZSZzY29wZT1zaXRl#db=a9h&AN=39031634 17 September 2011閲覧。. 
  4. ^ MacDonogh, Giles (April 2010). The King of Carlyle.. 60. p. 72. http://web.ebscohost.com/ehost/detail?vid=25&hid=110&sid=9bf8b961-3b62-47b0-993f-2717b321fd3e%40sessionmgr110&bdata=JmxvZ2luLmFzcCZzaXRlPWVob3N0LWxpdmUmc2NvcGU9c2l0ZQ%3d%3d#db=a9h&AN=48974044 26 September 2011閲覧。. 
  5. ^ Gooch, George (1962). Frederick the Great. Hamden, CN: Archon Books. p. 54 
  6. ^ Seven Years' War”. 26 September 2011閲覧。
  7. ^ Jerzy Łojek (1986). Geneza i obalenie Konstytucji 3 maja. Wydawn. Lubelskie. pp. 19–20. ISBN 978-83-222-0313-2. https://books.google.com/books?id=kbpFAAAAIAAJ 17 December 2011閲覧。 

関連項目

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