サント・トーマス収容所
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サント・トーマス収容所[1](サント・トーマスしゅうようじょ、英語: Santo Tomas Internment Camp)は太平洋戦争時に旧日本軍によりフィリピンのマニラに設けられた民間人収容のための施設である。旧日本軍がフィリピンに侵攻し占領する際にマニラの聖トマス大学(サント・トーマス大学)に設けられ[2]、イギリス人やアメリカ人の[3]民間人が[4][5]敵国人として収容された[3]。サント・トーマス収容所に1941年1月以降家族や親族と共に収容され、後にシンガポールやインドネシアなど他の国で抑留された者たちと共に日本国を被告として裁判を起こしたギルバート・マーティン・ヘア(1941年マニラ生)によると、この収容所で「民間抑留者は、頭にしらみがつき、至る所に南京虫がいる劣悪な環境に置かれ、シャワーの際やトイレでもプライバシーはなかった」とされ、また「民間抑留者の多くは、栄養失調、疾病あるいは看守による虐待が原因で死亡した」という[6]。
犠牲者
[編集]この収容所では米国出身で長年マニラに暮らしていた植物学者アドルフ・ダニエル・エドワード・エルマーも収容され、収容所が開設されてから1年にも満たない1942年4月17日[7](あるいは7月)にここで亡くなっている[8]。
脚注
[編集]- ^ 松元, 直歳『東京裁判審理要目』雄松堂書店、2010年、179頁。ISBN 978-4-8419-0536-6 。
- ^ 日本のフィリピン占領期に関する史料調査フォーラム 編 編『日本のフィリピン占領: インタビュー記録』龍溪書舎、1994年、387頁。ISBN 978-4-8447-8370-1, 4-8447-8370-X 。
- ^ a b 池端雪浦 編 編『日本占領下のフィリピン』岩波書店、1996年、355頁。ISBN 4-00-001729-2 。
- ^ 金ケ江, 清太郎『歩いてきた道―ヒリッピン物語―』国政社、1968年、536頁 。
- ^ 増田, 弘『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』中公新書、2009年、283頁 。
- ^ “東京地方裁判所 平成7年(ワ)1382号 判決”. 大判例. 2021年5月20日閲覧。
- ^ van Steenis-Kruseman, M. J. (1950). “Elmer, Adolph Daniel Edward”. Flora Malesiana. 1 1: 151–152 . - 元は紙媒体であったが、オランダ国立植物標本館のウェブサイトでこれに変更の加えられたものが公開されている(ElmerADE; 2021年5月21日閲覧。)。
- ^ Herre, Albert W. C. T. (1945). “Obituary: A.D.E. Elmer”. Science 101 (2628): 477-478. doi:10.1126/science.101.2628.477.