シャルル・ド・ラ・セルダ
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シャルル・ド・ラ・セルダ Charles de la Cerda | |
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アングレーム伯 | |
サン=ジャン=ダンジェリの占領 | |
在位 | 1350年 - 1354年 |
出生 |
1327年 |
死去 |
1354年1月8日 フランス王国、レーグル |
配偶者 | マルグリット・ド・シャティヨン |
家名 | ラ・セルダ家 |
父親 | アルフォンソ2世・デ・ラ・セルダ |
母親 | イザベル・ダントアン |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
シャルル・ド・ラ・セルダ(フランス語:Charles de la Cerda, 1327年 - 1354年1月8日)またはシャルル・デスパーニュ(Charles d'Espagne)は、フランコ・カスティーリャ貴族で軍人。アルフォンソ2世・デ・ラ・セルダ(1327年没)とイザベル・ダントアンの息子で[1]、アルフォンソ1世・デ・ラ・セルダ(1270年 - 1333年)の孫。フランス王ジャン2世の遠縁にあたる。
生涯
[編集]シャルルはジャン2世がノルマンディー公であったときの少年時代の仲間でお気に入りであり、ウィンチェルシーの海戦でカスティーリャのガレー船を指揮し、長い決死の争いの末、イングランド王エドワード3世に敗北した[2]。ジャン2世がフランス王位を継承してまもなく、シャルルはウー伯ラウール2世の処刑により空席であったフランス軍総司令官に任命され[3]、新たにアングレーム伯とされた。1349年にナバラ女王フアナ2世の死後空席であったアングレーム伯位は、その息子カルロス2世が継承権を主張していたが、カルロス2世はシャルルがアングレーム伯となったことに激しく憤った。1351年、シャルルはブルターニュ公シャルル・ド・シャティヨンの娘マルグリットと結婚した。
1354年、ナバラ王カルロス2世とその一味は、レーグルの宿屋でシャルルを襲い、殺害した[4]。この暗殺により、フランス国内は不安定な状態が続き、1364年にシャルル5世が即位したときにようやく解決した。
脚注
[編集]- ^ Farmer 2017, p. 14.
- ^ Cushway 2011, pp. 137–140.
- ^ Farmer 2017, p. 16.
- ^ Delachenal 1910, pp. 37–38.
参考文献
[編集]- Cushway, Graham (2011). Edward III and the War at Sea: The English Navy, 1327-1377. The Boydell Press
- Farmer, Sharon (2017). The Silk Industries of Medieval Paris: Artisanal Migration, Technological Innovation, and Gendered Experience. University of Pennsylvania Press
- Delachenal, Roland, ed (1910). Les Grandes Chroniques de France: Chronique des règnes de Jean II et de Charles V, Tome Premier (1350 – 1364). I. Librairie Renouard
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