シャルル=ジュール=アルマン・ド・ロアン
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シャルル=ジュール=アルマン・ド・ロアン(フランス語:Charles Jules Armand de Rohan, 1729年8月29日 - 1811年5月18日[1])は、ブルボン朝末期フランスの貴族、廷臣。ロシュフォール公及びモントーバン公。
シャルル・ド・ロアンとその妻のエレオノール=ウジェニー・ド・ベティシ・ド・メジエール(1707年 - 1757年)の間の第2子・長男。1766年父の死と共にロシュフォール分家の家督を相続[2]。1762年5月20日[1]パリ・サン=シュルピス教会で[3]、アレクサンドル・ドルレアン=ロトラン侯爵(1688年 - 1764年)[4]の長女マリー=アンリエット・ドルレアン=ロトラン(1744年 - 1820年?)と結婚、間に5人の子をもうけた。
- シャルル=メリアデック(1763年 - 1764年)
- シャルル=ルイ=ガスパール(1765年 - 1843年) - 1780年マリー=ルイーズ=ジョゼフィーヌ・ド・ロアンと結婚
- シャルロット=ルイーズ=ドロテ(1767年 - 1841年) - アンギャン公ルイ・アントワーヌの愛妾
- ルイ=カミーユ=ジュール(1770年 - 1794年) - ストラスブール司教座聖堂参事会員、恐怖政治下で刑死
- クレマンティーヌ=カロリーヌ=アンリエット(1786年 - 1850年) - ケリュ侯爵フランソワ・ルイ・ド・ゴドシャルと結婚
フランス革命が勃発するとドイツのヴォルムスに亡命[5]、その後従弟のルイ・ド・ロアン枢機卿を頼りエッテンハイムに移った[6]。同地で反革命のエミグレ軍に所属した[7]。妻はパリに戻り共和政を支持したため、離別した[5]。
1811年に死去。ロシュフォール=アン=イヴリーヌ城などの資産の大半は長男シャルルに譲られた[8]。1846年、シャルルの長男カミーユ・ロアンが、断絶したゲメネ分家からロアン家の家督を引き継ぎいだ。
引用・脚注
[編集]- ^ a b van de Pas, Leo. “Charles Jules de Rohan”. Genealogics .org. 2010年4月8日閲覧。
- ^ Millar, Stephan. “The Ancien Régime Peerage (4 August 1789)”. Napoleonseries.org. 2010年3月29日閲覧。
- ^ de Sardent, Marie. La Princesse Charlotte de Rohan et le Duc d'Enghien 2010年3月25日閲覧。
- ^ オルレアン=ロトラン家最後の当主で、弟は貨幣収集家、アカデミー・フランセーズ会員のシャルル・ドルレアン=ロトラン。
- ^ a b パストゥール、P86。
- ^ パストゥール、P88。
- ^ パストゥール、P100。
- ^ パストゥール、P302。
参考文献
[編集]- クロード・パストゥール(著)/伊東冬美(訳)『悲劇のアンギャン公爵』寿郎社、2017年