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シャーロット・ハウ (ハウ子爵夫人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イーノック・シーマン英語版による肖像画、1719年。

ハウ子爵夫人メアリー・ソフィア・シャーロット・ハウ: Mary Sophia Charlotte Howe, Viscountess Howe1695年10月30日洗礼 – 1782年6月13日)は、グレートブリテン王国の貴族夫人。40歳で夫を亡くした後、子爵家のノッティンガムシャーにおける影響力を行使して、家族の利益を守った[1]

生涯

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ヨハン・アドルフ・フォン・キールマンゼックドイツ語版男爵とダーリントン女伯爵ゾフィア・シャルロッテの娘として、ハノーファーで生まれ、1695年10月30日にケンブリッジシャーホースヒース英語版で洗礼を受けた[2]。母の異母兄はハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(のちのイギリス国王ジョージ1世)であり、2人が愛人関係でシャーロットの実父がゲオルク・ルートヴィヒであるという噂が流れたが[2]、20世紀の歴史学者の間では事実ではないことが通説になっている[1]。フォン・キールマンゼック男爵一家は1714年にジョージ1世とともにイギリスに移住した[1]

1719年4月8日、第2代ハウ子爵エマニュエル・スクロープ・ハウと結婚した[2]。4月15日、ジョージ1世はハウ子爵夫婦に750ポンドの年金を与え、後に1,250ポンドに増額した[2]。ハウ子爵の叔父エマニュエル・スクロープ・ハウが1700年代に在ハノーファーイギリス特命公使英語版を務めたため、『オックスフォード英国人名事典』はハウ家がハノーファーで知られている家族であるとした[1]

シャーロットが1720年4月7日にイギリスに帰化した後[2]、ハウ子爵夫婦は6男4女をもうけた[3]

  • スクロープ(Scrope) - 夭折[4]
  • ジョン - 夭折[4]
  • ジョージ・オーガスタス(1724年ごろ – 1758年7月6日) - 第3代ハウ子爵[4]
  • リチャード(1726年3月19日 – 1799年8月5日) - 第4代ハウ子爵、初代ハウ伯爵[4]
  • トマス(1728年ごろ – 1771年11月14日) - 庶民院議員、生涯未婚[5]
  • ウィリアム(1729年8月10日 – 1814年7月12日) - 第5代ハウ子爵[4]
  • キャロライン(1814年6月28日没) - ジョン・ハウ(John Howe、1707年ごろ – 1769年9月1日)と結婚[4]
  • ソフィア・シャーロット(1787年6月2日埋葬) - 1752年8月13日、ロバート・フェティプレイス(Robert Fettiplace、1730年/1731年 – 1799年1月12日)と結婚[4]
  • ジュリアナ(1803年3月没)
  • メアリー(1819年5月26日没) - 1763年6月21日、サー・ウィリアム・オーガスタス・ピット英語版と結婚、子供なし[6]

1732年に夫がバルバドス総督に任命されると、シャーロットは夫とともにバルバドスに向かったが、夫は1735年に同地で客死した[1]。帰国後、1745年にウェールズ公妃オーガスタの寝室女官(lady of the bedchamber)に任命されたが、ノッティンガムシャーにおいてハウ家と首相ヘンリー・ペラム一家が政治的に協力したことによるとされる[1]。しかしノッティンガム選挙区英語版選出庶民院議員だった長男が1758年に死去して、ヘンリー・ペラムの兄にあたる首相ニューカッスル公爵が補欠選挙で現職議員であるシャーロットの次男を推薦すると、シャーロットは代わりに現職議員でない四男を推薦して、ハウ家が2議席確保できるよう行動した[1]

1761年から1762年にかけて弟の息子フリードリヒドイツ語版カールドイツ語版がイングランドを訪れたときは2人を歓迎し、自身も1763年と1770年にドイツを訪れた[1]

晩年にも社交界で活躍して、アメリカ独立戦争に軍人として参戦した息子たちを擁護した[1]。1778年4月30日、シャーロットの年金は娘ジュリアナが受給する形で更新された[2]

1782年6月13日にメイフェアアルベマール・ストリート英語版にある自宅で死去、23日にハウ子爵家の地所があるノッティンガムシャーランガー英語版で埋葬された[2][1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j Kilburn, Matthew (3 January 2008) [23 September 2004]. "Howe, (Mary Sophia) Charlotte [née Sophia Charlotte Mary von Kielmansegg], Viscountess Howe". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/68356 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Warrand, Duncan; Howard de Walden, Thomas, eds. (1926). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Gordon to Hustpierpoint) (英語). Vol. 6 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 597.
  3. ^ Collen, Henry, ed. (1847). Debrett's Genealogical Peerage of Great Britain and Ireland (英語). London: William Pickering. pp. 414–415.
  4. ^ a b c d e f g Crisp, Frederick Arthur, ed. (1919). Visitation of England and Wales (英語). Vol. 13. pp. 99–103.
  5. ^ Brooke, John (1964). "HOWE, Hon. Thomas (c.1728-71).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年6月23日閲覧
  6. ^ Drummond, Mary M. (1964). "PITT, William Augustus (c.1728-1809), of Highfield Park, Hants.". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年6月23日閲覧