シャー・ルフ (アフシャール朝)
シャー・ルフ شاهرخ | |
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アフシャール朝 シャー | |
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在位 |
1748年 - 1750年 1750年 - 1796年 |
出生 |
1734年 |
死去 |
1796年 |
子女 |
ナーディル・ミールザー アッバース・ミールザー ナーシルッラー・ミールザー イマーム・クリー・ミールザー |
王朝 | アフシャール朝 |
父親 | レザー・クリー・ミールザー |
母親 | ファーティマ・スルターン・ベーグム |
シャー・ルフ(ペルシア語: شاهرخ Shahrokh シャーロフ、シャー・ルフ・ミルーザーとも、1734年 - 1796年)は、アフシャール朝の第4代・第6代で最後のシャー(在位:1748年10月1日[1] - 1750年1月14日[2]、1750年3月9日[3] - 1796年)。
生涯
[編集]即位と復位
[編集]父は初代君主のナーディル・シャーの息子のレザー・クリー・ベグ。生母はサファヴィー朝の第9代君主であるスルターン・フサインの娘である[4]。祖父が1747年に暗殺されると、義理の甥であるアーディル・シャーによってレザー・クリーをはじめナーシルッラー・ミールザーやイマーム・クリーら直系男子の大半は処刑されたが、彼は若年でサファヴィー朝の皇女を生母とする理由から助命された。
だが1748年にアーディル・シャーとその跡を継いだ弟イブラーヒームが相次いで廃されたため、サファヴィー朝の血統である彼が、クルド系やトルコ系、キジルバーシュの有力者の支持を受けてホラーサーンで即位した[5][6]。しかし1750年にカージャール族の有力者らに背かれて廃された。このときシャー・ルフは盲目にされている。だが、すぐに祖父の旧臣らの支持を受けて復位した。なお、二度目の政変の際に逃げ出した有力者たちは、アフマド・シャー・ドゥッラーニーのもとへ逃げ込み、アフマド・シャーに対してホラーサーン進撃を提言している[7][8]。
拷問と最期
[編集]その後、シャー・ルフは有力者の傀儡として利用された。1796年にはカージャール朝のアーガー・モハンマド・シャーにマシュハドを占領されてアフシャール朝は滅亡した。
結局、シャー・ルフはこのときの拷問が原因で死亡したという[4]。63歳没。
宗室
[編集]父母
[編集]- 父 レザー・クリー・ベク(初代君主のナーディル・シャーの息子。父に盲目にされた)
- 母 ファーティマ・スルターン・ベーグム(サファヴィー朝のスルターン・フサインの娘)
子
[編集]- ナディール・ミールザー(-1803年 ファトフ・アリー・シャーによって盲目、舌切に処されたうえ処刑)
- アッバース・ミールザー
- ナーシルッラー・ミールザー
- イマーム・クリー・ミールザー
出典
[編集]参考文献
[編集]- 小牧昌平 (1997). “一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデル・シャー沒後のアフシャール朝”. 東洋史研究 56 (2): 366-390. doi:10.14989/155132 .