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ジェイコブ・ブーヴェリー (初代フォルクストン子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トマス・ゲインズバラによる肖像画、1776年画。トマス・ハドソンによる1749年の肖像画に基づく[1]

初代フォルクストン子爵ジェイコブ・ブーヴェリー英語: Jacob Bouverie, 1st Viscount Folkestone、出生名ジェイコブ・ド・ブーヴェリーJacob des Bouverie)、1694年10月14日洗礼 – 1761年2月17日)は、グレートブリテン王国の政治家、貴族。科学技術産業振興協会(王立技芸協会)の初代会長を務めた(在任:1755年 – 1761年)。

生涯

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初代準男爵サー・ウィリアム・ド・ブーヴェリー英語版(1717年5月19日没)と2人目の妻アン・アーリー(Anne Urry、1739年6月5日没、デイヴィッド・アーリーの娘)の次男として生まれ、1694年10月14日にセント・キャサリン・クリー英語版で洗礼を受けた[2]。1708年[3]/1709年[4][5]ミドル・テンプルに入学、1711年10月20日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[3]。その後、1717年に父が死去すると1万8千ポンドを継承し[4]、ロンドンで商人を務めた[2]

1722年に叔父ジェイコブが死去するとケントにおける領地を継承[5]、1736年11月21日に兄にあたる第2代準男爵サー・エドワード・ド・ブーヴェリー英語版が死去すると、準男爵位やとロングフォード城英語版[6]などの財産を継承、翌1737年4月22日に議会の私法案英語版可決を受けて姓をド・ブーヴェリーからブーヴェリーに改めた[2]。同年にジョージア植民地信託英語版に1千ポンドを寄付すると、信託の1人に任命された[4][6]

1741年イギリス総選挙トーリー党の候補としてソールズベリー選挙区英語版から出馬、当選を果たした[4]。議会では常に野党の一員として投票したが[4]、1747年6月29日にグレートブリテン貴族であるウィルトシャーにおけるロングフォード男爵ケント州におけるフォルクストンのフォルクストン子爵に叙された[2]。叙爵の理由はブーヴェリーが国王ジョージ2世の愛妾ヤーマス女伯爵アマーリエ・ゾフィー・フォン・ヴァルモーデンに1万2千ポンドを支払ったためだったとされるが[4]オックスフォード英国人名事典ではこれを「ゴシップ」(gossip)であるとした[6]

1750年代に第2代ロムニー男爵ロバート・マーシャムとともに技芸協会の設立を計画したが、ウィリアム・シップリー英語版も同様の計画を立てていた[6]。1753年にマーシャムの友人スティーヴン・ヘールズの紹介でシップリー、フォルクストン、マーシャムが会談すると、フォルクストンとマーシャムはシップリーの計画への支持を決め、1754年3月22日に協会として最初の会議を開催した(フォルクストンが議長を務めた[6])。その後、1755年2月5日に正式に科学技術産業振興協会会長に選出され[6]、以降1761年に死去するまで会長を務めた[2]。最初の会議ではフォルクストン含め11人しか参加しなかったが、1761年に死去した時点で協会の会員数は1,000人にふくれあがり、フォルクストンは1758年にその功績で協会から金メダルを贈られた[6]

それ以外にもマーシャムと協力して1756年のマリーン・ソサエティ英語版設立に尽力[6]捨子養育院英語版guardian(1745年就任)を務めた[5]

1761年2月17日に死去、27日にブリットフォード英語版で埋葬された[2]。息子ウィリアムが爵位を継承した[2]

人物

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ホレス・ウォルポールによると、ジャコバイトだったという[4]

家族

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1724年1月31日[4]、メアリー・クラーク(Mary Clarke、1701年頃 – 1739年11月24日、バーソロミュー・クラークの娘)と結婚[2]、2男4女をもうけた[7]

1741年4月21日、エリザベス・マーシャム(Elizabeth Marsham、1782年9月25日没、初代ロムニー男爵ロバート・マーシャムの娘)と再婚[2]、2男をもうけた。

出典

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  1. ^ "Jacob Bouverie (1694–1761), First Viscount Folkestone and First President of the Society of Arts (after Thomas Hudson)". Art UK (英語). 2020年7月29日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 542–543.
  3. ^ a b Foster, Joseph, ed. (1891). "Bludworth-Brakell". Alumni Oxonienses 1500-1714 (英語). Oxford: University of Oxford. pp. 142–170.
  4. ^ a b c d e f g h Lea, R. S. (1970). "BOUVERIE, Sir Jacob, 3rd Bt. (?1694-1761), of Longford Castle, Wilts.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年7月29日閲覧
  5. ^ a b c 大野誠「Society of Arts 設立期(1754-57)の活動的会員のプロソポグラフィ」『長崎大学教養部紀要. 人文科学篇』第32巻第2号、長崎大学教養部、1992年1月、39-40頁、CRID 1050568772250738688hdl:10069/15291ISSN 02871300 
  6. ^ a b c d e f g h i Allan, D. G. C. (3 January 2008) [2007]. "Bouverie, Jacob [formerly Jacob Des Bouverie], first Viscount Folkestone". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/38924 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  7. ^ a b "Folkestone, Viscount (GB, 1747)". Cracroft's Peerage (英語). 15 February 2008. 2020年7月29日閲覧
  8. ^ Drummond, Mary M. (1964). "BOUVERIE, Hon. Edward (1738-1810), of Delapre Abbey, Northants.". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年7月29日閲覧
グレートブリテン議会英語版
先代
ピーター・バサースト英語版
ヘンリー・ホーア英語版
庶民院議員(ソールズベリー選挙区英語版選出)
1741年 – 1747年
同職:サー・エドワード・シーモア準男爵
次代
ウィリアム・ブーヴェリー閣下
エドワード・プーア英語版
職能団体・学会職
新設組織 科学技術産業振興協会会長
1755年 – 1761年
次代
ロムニー男爵
グレートブリテンの爵位
爵位創設 フォルクストン子爵
1747年 – 1761年
次代
ウィリアム・ブーヴェリー
イングランドの準男爵
先代
エドワード・ド・ブーヴェリー英語版
(セント・キャサリン・クリーの)準男爵
1736年 – 1761年
次代
ウィリアム・ブーヴェリー