ジェームズ・カトラー・ダン・パーカー
ジェームズ・カトラー・ダン・パーカー James Cutler Dunn Parker | |
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ジェームズ・カトラー・ダン・パーカー (1904年) | |
基本情報 | |
生誕 |
1828年6月2日 アメリカ合衆国 ボストン |
死没 |
1916年11月7日(88歳没) アメリカ合衆国 ブルックライン |
ジャンル | クラシック |
職業 | オルガニスト、教育者、ピアニスト |
ジェームズ・カトラー・ダン・パーカー(James Cutler Dunn Parker 1828年6月2日 - 1916年11月7日)は、アメリカ合衆国のオルガニスト、教育者、作曲家。
生涯
[編集]パーカーはマサチューセッツ州、ボストンで、出版・販売業を営むサミュエル・ヘイル・パーカーの息子として生まれた。1848年にハーバード大学を卒業[1]、続いてハーバード・ロー・スクールを修了後、彼はライプツィヒ音楽院へと入学した。音楽院ではイグナーツ・モシェレスとルイ・プレディにピアノを、ユリウス・リーツとエルンスト・リヒターに作曲を、モーリッツ・ハウプトマンに音楽理論と和声学を師事した[1]。
1854年にボストンへ帰郷したパーカーは、個人レッスンの受け付けを始め、これは生涯にわたって続けることになった。1862年に何人かの教え子がパーカー・クラブを立ち上げ、器楽や合唱の演奏会を催した[2]。彼は1859年にアンドーヴァーのマリア・デービー(Maria Derby)と結婚し、1人の子どもを授かった[1]。1864年から1891年にはボストンのトリニティ教会でオルガニストを務めており、これはフィリップス・ブルックスが牧師を務めていた時期とほぼ完全に一致する[1]。パーカーの祖父のサミュエル(Samuel)もこの教会の牧師であった。
パーカーはヘンデル・ハイドン協会の演奏会でのオルガン演奏も行った。1871年から1897年にはニューイングランド音楽院で教鞭を執った。1897年以降は音楽院の試験官を務めた[1]。マサチューセッツ州のブルックラインで没した。
パーカーは賛美歌、カンタータ、オラトリオ、教会音楽、ピアノ曲を作曲した。また、彼は教育用に2巻の作品集を遺している。1855年から1870年には和声を主題に仕事を行っており、リヒターの「和声学の手引き Harmonielehre」を1873年に英訳している[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f Donald Christensen (1999). "Parker, J. C. D.". American National Biography. New York: Oxford University Press.
- ^ Frederick W. Coburn (1934). "Parker, James Cutler Dunn". Dictionary of American Biography. New York: Charles Scribner's Sons.
参考文献
[編集]- “People and Places”. Margaret Ruthven Lang & Family. 28 May 2012閲覧。 (scroll down to entry for "Parker, James Cutler Dunn")
- Wilson, J. G.; Fiske, J., eds. (1900). . Appletons' Cyclopædia of American Biography (英語). New York: D. Appleton.