ジノヴィー・ドッセル
ジノヴィー・ニコラエヴィチ・ドッセル Зиновий Николаевич Доссер | |
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1905年のドッセル | |
生年月日 | 1882年 |
出生地 | ロシア帝国ペルミ県ペルミ郡ペルミ |
没年月日 | 1938年6月14日 |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ、コムナルカ射撃場[1] |
所属政党 |
(ロシア社会民主労働党→) ボリシェヴィキ |
駐イタリア・ソビエト連邦通商代表 | |
在任期間 | 1926年 - 1928年6月 |
バクー県人民経済会議議長 | |
在任期間 | 1918年 - 1918年 |
在任期間 | 1920年 - 1922年 |
ジノヴィー・ニコラエヴィチ・ドッセル(ロシア語: Зиновий Николаевич Доссер、1882年 - 1938年6月14日)は、ロシアの革命家、ソビエト連邦の財政家・外交官。セミョーン・ペトロヴィチ・レシー (Семён Петрович Леший) の党名を持つ[2]。
生涯
[編集]1882年にロシア帝国ペルミ県ペルミで生まれたロシア人[1](ユダヤ人とも[2])。中等教育を終え[3]、1902年からロシア社会民主労働党の党員となって[4]革命運動に関わり始め、繰り返し逮捕された[2]。1904年には党ペテルブルク委員会メンバー[2]、翌1905年のロシア第一革命の際には3月から党モスクワ委メンバーとなり、10月にプレスニャ地区委を組織[5]。その後もザモスクヴォレチエ地区委、モスクワ委および中央工業地区の軍事化に関わり、十二月蜂起の指導者の一人となった[5]。しかし、革命後の1907年に離党し、革命運動からもしばし遠ざかった[3]。
1917年の二月革命後からは再び石油労働組合で活動し[2]、6月からはペトログラードのボリシェヴィキ組織で活動[4]。十月革命の際もペトログラードで武装蜂起に参加した[5]。翌1918年にはバクー県人民経済会議議長となり、1919年から1920年まではロシア社会主義連邦ソビエト共和国防衛・赤色陸海軍補給労農ソビエト非常委責任者、1920年から1922年まではロシア共和国国民経済最高会議 (ru) 大石油委議長を歴任し、1922年から1924年まではロシア共和国労働・防衛高等仲裁委およびソビエト連邦石油シンジケート (ru) 管理部でも活動[4]。1924年から1926年までは石油シンジケートの駐中華民国代表、1926年から1928年6月までは駐イタリア・ソビエト連邦通商代表、1928年から1930年まではロシア共和国貿易人民委員部局長、1930年から1934年まではロシア共和国供給人民委員部局長を歴任した[4]。
しかし、モスクワで通信販売上級エコノミストを務めていた1938年2月14日に逮捕され[3]、反ソテロ組織への参加を理由に、同年6月14日連邦最高裁軍事参議会によって死刑を宣告され、同日処刑された[1]。その後、1956年8月に名誉回復がなされた[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d “Доссер Зиновий Николаевич”. Сахаровский центр. 2016年11月20日閲覧。
- ^ a b c d e “ДОССЕР Зиновий Николаевич”. Российская Еврейская Энциклопедия (2009年7月11日). 2016年11月20日閲覧。
- ^ a b c “Доссер Зиновий Николаевич”. Архив Александра Н. Яковлева. 2016年11月20日閲覧。
- ^ a b c d “Доссер Зиновий Николаевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年11月20日閲覧。
- ^ a b c Доссер // Москва: Энциклопедия / Глав. ред. А. Л. Нарочницкий. — М.: Советская энциклопедия, 1980. — 688 с., ил. — 200 000 экз.
公職 | ||
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先代 なし |
バクー県人民経済会議議長 1918年 - 1918年 |
次代 イヴァン・フィオレトフ |
外交職 | ||
先代 ドミトリー・ゴレニシチョフ=クトゥーゾフ |
駐イタリア・ソビエト連邦通商代表 1926年 - 1928年6月 |
次代 ヨシフ・ホドロフスキー |