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ジャバル・シャンマル王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャバル・シャンマル首長国
إمارة جبل شمر
第二次サウード王国 1836年 - 1921年 ナジュド及びハッサ王国
ナジュド・スルタン国
ヒジャーズ王国
ジャバル・シャンマル首長国の国旗 ジャバル・シャンマル首長国の国章
(1920年までの国旗) (1920年以降の国旗)
ジャバル・シャンマル首長国の位置
1873年時点の領土
公用語 アラビア語
オスマン語
ペルシア語
首都 ハーイル
首長
1836年 - 1848年 アブドゥッラー1世
1921年 - 1921年ムハンマド2世
人口
1921年[1]200,000人
変遷
成立 1836年
滅亡1921年11月2日

ジャバル・シャンマル首長国またはハーイル首長国は、1836年から1921年まであったアラブ部族の国家。首都はハーイルにあった。

この国はラシード家英語版君主制によって統治され、今日のサウジアラビアイラクヨルダンの一部を含んでいた。

歴史

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ハーイル一帯の豪族だったアブドゥッラー・ビン・アリー・アッ=ラシード英語版ファイサル・ビン・トゥルキー・アール=サウード英語版の首長即位への功によって1834年ハーイル総督に列せられたが、ムハンマド・アリー朝の侵攻によってファイサルが追放される事態になった。これを奇貨としてアブドゥッラー1836年に自ら首長に即位してネジュド首長国(第二次サウード王国)から自立、1891年に至ってサウード家リヤドからクウェートに追放しオスマン帝国の後ろ楯とメッカ巡礼の中継地であるが故の経済力を背景にアラビア半島内陸部を支配した。

しかし19世紀後半からのオスマン帝国の衰退でジャバル・シャンマル王国の優位にも翳りを見せ、1902年にはサウード家復興を掲げたアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードがリヤドを奪還。首長アブドゥルアズィーズ・ビン・ムトイブ・アッ=ラシード英語版自らサウード家追討に向かうも1906年にラウダト・ムハンナー英語版で敗死。これを切っ掛けとして衰勢は明らかとなり、1921年にサウード家に降伏して滅亡した。

脚注

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  1. ^ Jebel Shammar (Hail)”. Worldstatemen.org. 2022年12月24日閲覧。