ジャモ・ベイ・ハジンスキー
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ジャモ・ベイ・スュレイマン・オグル・ハジンスキー Camo bəy Süleyman oğlu Hacınski | |
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生年月日 | 1888年6月14日 |
出生地 | ロシア帝国バクー県クバ郡クバ |
没年月日 | 1942年 |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、キーロフ州キーロフ、ヴャトカ収容所 |
出身校 | サンクトペテルブルク大学法学部卒業 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | ムスリム社会主義者ブロック[1] |
親族 | メフディ・ベイ・ハジンスキー(兄) |
国家統制官 | |
内閣 | 第1次ホイスキー内閣 |
在任期間 | 1918年5月28日 - 1918年6月17日 |
内閣 | 第2次ユシフベイリ内閣 |
在任期間 | 1919年3月14日 - 1920年4月1日 |
ジャモ・ベイ・スュレイマン・オグル・ハジンスキー(アゼルバイジャン語: Camo bəy Süleyman oğlu Hacınski、1888年6月14日[2] - 1942年)は、アゼルバイジャン民主共和国の政治家。ロシア語名ジャモ・ベク・ガジンスキー (Джамо бек Гаджинский)[1]。
生涯
[編集]ロシア帝国バクー県のクバに生まれた[3]。1907年にサンクトペテルブルク大学法学部へ入学し、卒業後は1915年から2年間を、バトゥムのムスリム亡命者支援組織で法律顧問として働いた[3]。1917年4月にはザカフカース特別委員会の代表となり、翌1918年2月からはザカフカース委員部でも[3]ムスリム派閥の代表を務めた[2]。同年5月28日にアゼルバイジャン国民議会がアゼルバイジャン民主共和国の独立宣言を発した際には、その賛同者の一人となった[1]。
独立後のアゼルバイジャンでは初代内閣で6月17日まで国家統制官を務め、1919年3月14日から翌1920年4月1日までの第5代内閣で郵便・電信大臣を務めた[4]。しかし、赤軍のアゼルバイジャン侵攻後の1922年には逮捕され懲役3年の刑を受けた[2]。6年間服役した後[3]、1928年にソロヴェツキー特殊収容所からバクーへ帰還するも、1938年に再逮捕され、1942年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国キーロフのヴャトカ収容所で死去した[2]。その後、1956年に名誉回復がなされた[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c “Национальный Совет Азербайджана”. Азербайджанская Демократическая Республика. 2015年12月19日閲覧。
- ^ a b c d e “Camo bəy Hacınski”. Adam.az - Azərbaycanın ən böyük bioqrafiya bankı. 2015年12月19日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c d “Biographies of the ADR founders”. Azerbaijan Democratic Republic. 2015年12月19日閲覧。
- ^ “Правительство”. Азербайджанская Демократическая Республика. 2015年12月19日閲覧。
公職 | ||
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先代 なし |
国家統制官 1918年5月28日 - 6月17日 |
次代 アブデュラリ・ベイ・アミルジャノフ |
先代 アスラン・ベイ・サフィキュルツキー |
郵便・電信大臣 1919年3月14日 - 1920年4月1日 |
次代 なし |