ジャン・ポール・マルティーニ
ジャン・ポール・マルティーニ Jean Paul Martini | |
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1813年 | |
基本情報 | |
出生名 | ヨハン・パウル・エギディウス・シュヴァルツェンドルフあるいはマルティン |
生誕 |
1741年8月31日 神聖ローマ帝国バイエルン選帝侯領、フライシュタット |
死没 |
1816年2月14日(74歳没) フランス王国、パリ |
職業 | 作曲家 |
ジャン・ポール・エジード・マルティーニ(Jean Paul Egide Martini, 1741年8月31日 - 1816年2月14日 パリ)は、ドイツのフライシュタット出身のフランスの作曲家[1]。本名はヨハン・パウル・エギディウス・シュヴァルツェンドルフ(Johann Paul Ägidius Schwartzendorf)。姓については「マルティン (Martin) 」とする説もある。
6歳の時に両親と死別。父親アンドレアス・マルティン(Andreas Martin)とバルバラ夫人は、それぞれ学校教師とオルガニストであった。さしあたってイエズス会の神学校に通いながら、早くも11歳でオルガニストとして働いていた。その後は哲学の勉強のためにフライブルク・イム・ブライスガウに行くものの、むしろ音楽に親しみを感ずるようになり、やがて怠業気味となる。1760年にロレーヌのナンシーに行き、イタリア語で「マルティーニ・イル・テデスコ」(Martini il Tedesco、ドイツ人マルティーニ)と名乗るようになる。1764年にマルグリット・カムロ(Marguerite Camelot)と結婚。マルグリット夫人もオルガニストの家系の出であった。
パリに移住してから、とりわけオペラと行進曲の作曲家として、最大の成功が舞い込んだ。1788年に宮廷楽長(Surintendant de la musique du roi)として宗教曲にかかわる宮廷音楽家に、またパリで最も重要な劇場の監督に任命される。だが、フランス革命の勃発によって地位を失い、不安なまま至急リヨンに避難する。1796年にパリ音楽院に採用されるが、パリで作曲家として成功できず、1802年に再び解雇される。その後は再び教会音楽に献身した。すでに70代の峠を越えていたが、1814年のブルボン家の王政復古まで生き延び、再び宮廷楽長に任命された。最後に『ルイ16世のためのレクイエム』を作曲したが、この作品はマルティーニ自身の死の3週間前に初演された。セーヌ=サン=ドニ県にて死去。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
作品
[編集]代表作はフランス語の歌曲『愛の喜びは』(Plaisir d'Amour、ジャン・ピエール・クラリス作詞)であり、これは時にイタリア語の歌詞でも歌われる。日本では好んで結婚式のBGMにも使われるが、歌詞の大意は「愛の喜びは長続きしない。愛の苦しみだけが長続きする。僕のつれないシルヴィアは……」というもので、恋愛賛美の内容ではなく、不実な恋人についての愚痴である。
このほかに、『15歳の恋人もしくは2つの祭』(L'amoureux de quinze ans ou La double fête)『君主の義務』(Le Droit du Seigneur)などの作品のほか、吹奏楽のための一連の革命讃歌『共和政讃歌』(Hymne pour le Republique)『9月22日の讃歌』(Hymne pour le festival le 22. semptembre)も手掛けた。