ジャン=バティスト・トレヤール

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ジャン=バティスト・トレヤール、1790年。

ジャン=バティスト・トレヤールフランス語: Jean Baptiste Treilhard1742年1月3日1810年12月1日)は、フランス革命期の政治家。

略歴[編集]

1742年、コレーズ県ブリーヴ=ラ=ガイヤルドで生まれた[1]パリ高等法院で弁護士として名声を得た[1]

1789年の三部会で第三身分の代表の1人に選ばれ、同年の憲法制定国民議会ではカトリック教会の再編(聖職者民事基本法)、特に教会財産国有化の議論で自身の能力を示した[1]。1791年の立法議会には被選挙権がなく、代わりにパリ刑事裁判所の首席裁判官に就任したが、弱腰な態度で評価が低かった[1]

1792年に国民公会が成立するとセーヌ=エ=オワーズ県英語版代表として議員に当選し[1]ジロンド派の一員となった。1792年12月27日には国民公会の議長に就任、1793年1月に元国王ルイ16世の死刑に賛成票を投じた[1]。同年には公安委員会の委員にも就任した[1]

1795年に総裁政府が成立すると五百人会の議員になり、共和暦4年雪月(1795年12月22日 – 1796年1月23日)には議長も務めた[1]。このほか、破毀院の裁判官を務め、1797年のラシュタット会議でフランス代表を務めた[1](のちに帰国してジャン・ドブリ英語版が後任となった)。

1798年にフランス総裁の1人に就任したが[1]、1799年のプレリアール30日のクーデター英語版で就任を無効にされた。同年のブリュメール18日のクーデターの後、パリ控訴院英語版の首席裁判官に就任、フランス民法典フランス商法典フランス語版フランス治罪法典フランス語版フランス刑法典英語版の起草に関わった[1]。1808年に伯爵に叙され、1809年には国務院入りを果たした。

1810年12月1日に死去した[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Treilhard, Jean Baptiste" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 27 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 238.

外部リンク[編集]