ジョアッキーノ・グレコ
ジョアッキーノ・グレコ(Gioachino Greco, 1600年 - 1630年或いは1634年)、別名イル・カラブレーゼ(Il Calabrese)はイタリアのチェスの選手で、競技と本の著作で収入を得た、歴史上最初の職業的チェスの選手。シシリアン・ディフェンスを多用した。
カラブリア州のコゼンツァの近くのチェーリコで1600年頃に生まれた。カラブリアはすでに、レオナルド・ディ・ボノ、ミシェル・ディ・マウロといったチェスの名手を輩出していた。グレコ自身の文書によると彼は教育を受けず、下層階級の出身である。1619年に、グレコはチェスの戦術やゲームを記録として集め始め、裕福な後援者に原稿の写しを許可するようになった。ローマでは非常に人気があったが、グレコは1621年に自身の力を試すためにパリやロンドンに旅立った。ロンドンにたどり着いた彼は、同地の最高のプレイヤーたちをすべて倒した。この時、フランシスコ・ドルフィン卿とニコラスは、彼の原稿の写しを与えられた。ロンドン滞在中、グレコは研究と原稿への追加のために、すべての対局を記録するということを思いついた。彼はこのアイデアに沿って原稿を書き直した後、1624年にパリに戻った。それからスペインに行って、国王フェリペ4世の裁判官をした。そこで、グレコは彼の良き指導者と当時の彼自身以外の最も強いプレーヤー、マリアーノ・モラノを倒した。彼は、彼はスペインの貴族によって西インド諸島(アメリカの領土)へ旅立つことに誘われたもののイタリアに帰国した。その後彼は病気になって、30歳或いは34歳という若い年齢で死去した。彼は気前良くイエズス会にチェスで稼いだ全てのお金を寄付した。