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ジョアン・ヴィエイラ・ピント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョアン・ピント
名前
本名 ジョアン・マヌエル・ヴィエイラ・ピント
João Manuel Vieira Pinto
ラテン文字 João Pinto
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1971-08-19) 1971年8月19日(53歳)
出身地 ポルト
身長 171cm
選手情報
ポジション FWSS
MFAM
ユース
1982-1983 ポルトガルの旗 アギアス・ダ・アレオサ
1983-1988 ポルトガルの旗 ボアヴィスタ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1989 ポルトガルの旗 ボアヴィスタ 17 (4)
1990-1991 スペインの旗 アトレティコ・マドリレーニョ 7 (2)
1991-1992 ポルトガルの旗 ボアヴィスタ 34 (8)
1992-2000 ポルトガルの旗 ベンフィカ 220 (64)
2000-2004 ポルトガルの旗 スポルティングCP 115 (28)
2004-2006 ポルトガルの旗 ボアヴィスタ 57 (11)
2006-2008 ポルトガルの旗 ブラガ 33 (3)
通算 476 (118)
代表歴
1989-1991 ポルトガルの旗 ポルトガル U-20 18 (3)
1991-1994 ポルトガルの旗 ポルトガル U-21 16 (5)
1994-2001 ポルトガルの旗 ポルトガル 81 (23)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジョアン・マヌエル・ヴィエイラ・ピント (João Manuel Vieira Pinto, 1971年8月19日 - ) は、ポルトガル共和国ポルト出身の元サッカー選手である。現役時代のポジションはFWMFジョアン・ピントと呼ばれる。

ポルトガル代表黄金世代と呼ばれた世代のひとりであり、フェルナンド・ブラッサルドポルトガル語版とともに、FIFAワールドユース選手権優勝を2度経験した。フル代表でもUEFA欧州選手権FIFAワールドカップなどの大会に出場した[1]

経歴

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ユース時代

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ジョアン・ピントはポルト市内東部のカンパーニャに所在するクラブ、バイーロ・ド・ファルカン (Bairro do Falcao) およびアグイアス・ダ・アレオサ (Aguias da Areosa) でプレーした後、FCポルトのユースチームのセレクションを受験した。しかし合格する事ができなかったため、ボアヴィスタFCのユースチームに入団する事となった。1988年からトップチームでも登録されるようになり、17歳でスーペル・リーガのリーグ戦に出場するようになった。

1990-91年度はスペインに渡り、アトレティコ・マドリードBで過ごしたが、シーズン終了後ボアヴィスタに復帰した。この年度では43試合に出場して8得点を挙げた他、1992年度のポルトガルカップ優勝を経験し、ポルトガル年間最優秀選手賞を受賞した。シーズン終了後SLベンフィカと契約し、移籍した。

ベンフィカ時代

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ベンフィカ移籍後の1992年、ジョアン・ピントは1994 FIFAワールドカップ予選を戦うポルトガル代表の一員として選出され、スコットランドに遠征したが、その期間彼は気胸の症状に苦しんだ。後に治癒はしたものの、1992-93年度は試合に出る事ができなかった。1993-94年度から復帰し、チームの主力選手のひとりとして活躍した。

エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデで開催されたスポルティングCPとのダービーマッチではハットトリックを達成 (試合は6-3でベンフィカの勝利) したのを始めとしてベンフィカの勝利に貢献し、同シーズンをベンフィカは優勝という結果で終えた。

1995年、ピントは引退するアントニオ・ヴェローゾポルトガル語版の後を継いで主将に就任した。しかし1995-96年度はカップ戦で優勝はしたものの、リーグタイトルは逃した。翌年度以降もベンフィカはタイトルから遠ざかったが、それでもピントはマヌエル・ルイ・コスタともども、ポルトガル代表では主力選手のひとりとしてあり続けた。

2000年、年俸を巡って会長のジョアン・ヴァレ・エ・アゼヴェド (João Vale e Azevedo) と争った末、ピントはベンフィカとの契約を解除した。それはUEFA EURO 2000の1週間前の事であった。ピントは無所属のまま同大会に臨み[2]、大会準優勝に貢献した。

スポルティングCP時代

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EURO 2000終了後より、ジョアン・ピントはポルトガル国外のクラブから複数獲得のオファーを受けていたが、いずれも受諾せず、スポルティングCPに入団した。2004年にSCブラガに移籍するまでの間に、4年間で142試合に出場して32得点を挙げた。特にマリオ・ジャルデウが加入した2001-02年度シーズンではジャルデウと共に活躍し、同年度リーグ優勝・ポルトガルカップ優勝に貢献した。しかし2002 FIFAワールドカップのグループリーグ戦第3戦 (対戦相手: 韓国) の最中、ピントは相手選手へのタックルでレッドカードを受けて退場処分となった上[3]、主審のアンヘル・サンチェススペイン語版に暴力行為を働き、6ヶ月間の公式試合出場停止処分を言い渡された (後4ヶ月に軽減)[要出典]

ボアヴィスタ (第2期)、およびブラガ時代

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2004年にジョアン・ピントはボアヴィスタに戻り、2006年まで在籍した。在籍2年目の2005-06年度にボアヴィスタはリーグ6位の成績を挙げた。ピントは年間で9得点を挙げている。シーズン終了後の7月、SCブラガとの1年間の契約に応じて移籍した[4]

ブラガ加入1年目の2006-07年度、ピントは24試合に出場して2得点を挙げた。クラブは年間4位の成績でシーズンを終え、ピントは契約延長により、2007-08年度もブラガでプレーする事となった[5]。しかし2008年2月、ピントはMLS所属のトロントFCの練習に参加し、同月22日、ブラガとの契約が解除された事が発表された[6]

トロントとの契約は破談となり、その後サウジアラビアアル・ヒラルとの交渉も破談となった。2008年7月22日、ジョアン・ピントは現役引退を表明した[7]

引退後はポルトガルサッカー連盟のディレクターとして働いている。

私生活

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ジョアン・ピント(2012年)

ジョアン・ピントは10代で結婚し、2人の子の父親となったが、2003年に離婚した。 1988年に生まれた先妻の息子チアゴ・ピントポルトガル語版SLベンフィカおよびスポルティングCPの下部組織を経て、CDオリヴァイス・エ・モスカヴィジポルトガル語版で初めてプロ選手となった。現在はリオ・アヴェFC所属。チアゴは09年6月に交際していた女性と結婚し、2010年6月に息子が誕生した為ピントは祖父となった。 後にピントはポルトガルのモデルでテレビ司会者のマリサ・クルスと交際し再婚、彼女との間に息子が2人いたが2013年に離婚した。

2歳下の弟セルジオ・ピント英語版もプロサッカー選手となった[8]

ポルトガル代表としてのキャリア

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1989年、ジョアン・ピントはU-20ポルトガル代表に選出され、サウジアラビアで開催されたワールドユースに出場。グループリーグのナイジェリア戦で1得点を挙げた。1991年、再びU-20代表に選出され、開催国代表としてワールドユースに出場。主将として臨んだこの大会で6試合に出場した他、アイルランド戦で1得点を挙げた。

1991年にA代表デビューして以来、ピントは通算81試合に出場して23得点を挙げた。また代表選手として、UEFA欧州選手権に1996年、2000年と2度出場しただけでなく、2002 FIFAワールドカップにも出場した。同大会終了後、ピントは代表から引退した。

成績

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タイトル

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クラブ

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ボアヴィスタFC
SLベンフィカ
スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル
U-20ポルトガル代表

個人

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  • ポルトガル年間最優秀選手賞 : 3回 (1992, 1993, 1994)

脚注

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  1. ^ Retirement beckons for Joao Pinto (英語) UEFA公式サイト
  2. ^ ただし登録上ではベンフィカ所属となっている。
  3. ^ Porto to ask Sporting questions
  4. ^ Braga bag Joao Pinto's experience
  5. ^ Joao Pinto prolongs career at Braga
  6. ^ Pinto expected on Monday
  7. ^ O adeus de João Vieira Pinto (ポルトガル語) record.xl 2008年7月22日付記事
  8. ^ Portuguese men-a-broad”. The Football Association (4 September 2002). 24 March 2009閲覧。

外部リンク

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