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ジョセフ・クラーク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョセフ・クラーク
Joseph Clark
基本情報
フルネーム Joseph Sill Clark Sr.
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・ペンシルベニア州ジャーマンタウン
生年月日 (1861-11-30) 1861年11月30日
没年月日 (1956-04-14) 1956年4月14日(94歳没)
死没地 同・ペンシルベニア州フィラデルフィア
殿堂入り 1955年
4大大会最高成績・シングルス
全米 ベスト4(1885-87)
4大大会最高成績・ダブルス
全米 優勝(1885)
優勝回数 1(米1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米 優勝(1888・89)
優勝回数 2(米2)

ジョセフ・クラークJoseph Clark, 1861年11月30日 - 1956年4月14日)は、アメリカペンシルベニア州ジャーマンタウン出身の男子テニス選手。フルネームは Joseph Sill Clark (ジョセフ・シル・クラーク)といい、「ジョー・クラーク」(Joe Clark)の呼び名でも知られる。彼はハーバード大学の学生選手として、黎明期の全米選手権(現在の全米オープンテニス)や「全米大学対抗テニス選手権」で活躍し、1885年の全米選手権男子ダブルスでリチャード・シアーズと組んで優勝した。彼の家族は名門のテニス一家であり、2歳年上の兄クラレンス・クラーク1859年 - 1937年)も国際テニス殿堂入りした名選手だった。

来歴

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現在は「全米オープン」として知られるテニス競技大会は、1881年に男子シングルスと男子ダブルスの2部門が始まった。1968年に現在のような「オープン大会」となるまでは、各部門が個別の名称を持ち、大会会場も別々のテニスクラブで開かれた点が、他の3つのテニス4大大会と大きく異なる。最初の6年間、1881年から1886年までは「全米シングルス選手権」(現在の男子シングルス部門、名称:U.S. National Singles Championship)と「全米ダブルス選手権」(現在の男子ダブルス部門、名称:U.S. National Doubles Championship)が同じロードアイランド州ニューポートにある「ニューポート・カジノ」で開かれた。ジョセフ・クラークは1882年の第2回大会から全米選手権に出場し始め、1885年から1887年まで3年連続でシングルスのベスト4に入ったが、決勝戦には1度も進出できなかった。

1885年の「全米ダブルス選手権」で、クラークは同じハーバード大学のリチャード・シアーズと組み、決勝でヘンリー・スローカム&パーシー・クナップ組を 6-3, 6-0, 6-2 で破って優勝した。クラークとシアーズは、同じ大学のライバル選手として「全米大学対抗テニス選手権」でも優勝を争い、クラークは1883年に全米大学選手権のシングルス・ダブルスで単複優勝を果たした。最初期の大学選手権はコネチカット州ハートフォードの精神病院で行われ、何人かの入院患者たちがボールボーイ(球拾い)の仕事を手伝ったという。

1883年、ジョセフとクラレンスのクラーク兄弟はイギリスに遠征し、親善試合としてウィリアムアーネストの「レンショー兄弟」と2試合のダブルス戦を行ったが、2試合とも敗れた。これを足掛かりに、3人のアメリカ人選手が翌年の1884年ウィンブルドン選手権に初出場し、リチャード・シアーズジェームズ・ドワイト、A・L・ライブズの3名が同選手権で最初の外国人出場者になった。クラーク兄弟はウィンブルドン選手権に出場しなかったが、シアーズやドワイトたちが選手権に出場する道を開いたのである。その後、ジョセフは1889年から1891年まで3年間全米テニス協会(USTA)の会長を務めた。

1954年ジェームズ・バン・アレン1902年 - 1991年)が、最初の全米シングルス選手権会場があったロードアイランド州ニューポートの地に「国際テニス殿堂」を設立した。第1回の国際テニス殿堂入り式典は1955年に行われ、クラークはシアーズらと並んで、最初の殿堂入りをした7名の選手のひとりに選ばれた。アメリカ男子テニス界の黎明期を切り開いたジョセフ・シル・クラークは、殿堂入り式典の時はただ1人の存命選手であったが、1年後の1956年4月14日に94歳の高齢で亡くなった。

参考文献

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  • Lance Tingay, “100 Years of Wimbledon” (ウィンブルドンの100年史) Guinness Superlatives Ltd., London (1977) ISBN 0-900424-71-0 本書の25-26ページより、クラーク兄弟の親善試合とアメリカ人選手の初遠征を参照した。外国選手の遠征記録は241ページにも記載がある。

外部リンク

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