ジョチ・トルカク
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ジョチ・トルカク(J̌oči Torqaq、? - 1286年)は、モンゴル帝国に仕えたケレイト人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では搠直腯魯華(shuòzhítúlŭhuá)と記される。
概要
[編集]ジョチ・トルカクは当初直属の200の兵を率いてモンゴル帝国の創始者チンギス・カンに仕え始めたが、ナイマン遠征や西夏遠征における功績が評価されて1万の兵を率いることが許されるようになり、ムカリ率いる東方(金朝)方面軍に所属するようになった。ジョチ・トルカクはムカリの下に配属されてすぐに金朝の桓州を攻略する功績を挙げ、この時獲得した100万あまりの軍馬は全軍に支給され、モンゴル軍の士気を大いに高めたという[1]。
1211年(辛未)には遼東・遼西方面に侵攻し諸州を攻略したが、唯一東京遼陽府のみが降らなかったため、捕虜とした金朝の使者を派遣し降伏勧告させることとなった。この時、ジョチ・トルカクは「東京は金の旧都であるため備えは十分で守りは堅く、攻略するに容易でない。故に経略でもってこれを攻略すべきである。派遣した使者を受け容れるため城門が開けられた時、大軍でもってこれに攻め込むべきである」と献策し、この策によって東京は陥落することとなった。その後もジョチ・トルカクは河北各地で転戦したが、大名府の戦いで流れ矢にあたり戦死した[2]。
ジョチ・トルカクの死後は息子のサルギス・ブカ(撒吉思卜華)が後を継ぎ、金朝攻略に従事した[3][4]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻122列伝9搠直腯魯華伝,「搠直腯魯華、蒙古克烈氏。初、以其部人二百従太祖征乃蛮・西夏有功、命将万人、為太師国王木華黎前鋒。下金桓州、得其監馬幾百万匹、分属諸軍、軍勢大振」
- ^ 『元史』巻122列伝9搠直腯魯華伝,「歳辛未、破遼東・西諸州、唯東京未下、獲金使、遣往諭之。搠直腯魯華曰『東京、金旧都、備厳而守固、攻之未易下、以計破之可也。請易服与其使偕往説之、彼将不疑、俟其門開、継以大軍赴之、則可克矣』。卒如其計。徇地河北、攻大名、小大数十戦、城垂陥、中流矢而卒。武宗時、贈太傅、追封衛国公、諡武敏」
- ^ 『元史』巻122列伝9搠直腯魯華伝,「[搠直腯魯華]子撒吉思卜華、嗣将其軍。太宗元年己丑、錫金符、安輯河北・山東諸州。先是真定同知武仙攻滅都元帥史天倪家、其弟天澤撃仙走、復真定。以天澤為真定・河間・済南・東平・大名五路万戸。庚寅、命撒吉思卜華佩金虎符、以総師行省監其軍。金宣宗之徙都於汴也、立河平軍於新衛以自固、恃為北門。撒吉思卜華数攻之、不抜。壬辰正月、太宗自白坡済河而南、睿宗由峭石灘渉漢而北。撒吉思卜華集西都水之舟、渡自河陰。至鄭、鄭守馬伯堅降。及金義宗勢力窮蹙出奔、帝命撒吉思卜華追躡之、会其節度斜捻阿不棄衛入汴、撒吉思卜華遂拠而有之。十二月、義宗自黄陵岡済河、謀復衛。撒吉思卜華与其将白撒戦白公廟五日夜、俘斬万計、余衆尽潰。義宗竄帰徳。撒吉思卜華追躡其後、薄北門而軍。左右皆水、其舟師日至。癸巳四月、其将官奴夜来斫営、腹背受敵、撒吉思卜華与一軍皆没。嗣国王塔思承制、以其弟明安答児領其行営、尋有旨以為蒙古漢軍万戸。明安答児善騎射、従征淮安、因糧於敵、未嘗匱乏、軍士免負擔之労、咸楽為用。癸丑、憲宗遣従昔烈門太子南伐、死於鈞州。五子、長腯虎、幼普闌渓」
- ^ 『元史』巻122列伝9搠直腯魯華伝,「腯虎従世祖北征叛王、挺戈出入其陣、帝壮之、賜号抜都、賞白金四百五十両。及平李璮之乱、亦有戦功。普闌渓、光禄大夫・徽政使。金亡、命大臣忽都虎料民分封功臣、撒吉思卜華妻楊氏自陳曰『吾舅及夫皆死国事、而独爾見遺』。事聞、帝曰『彼家再世死難、宜賜新衛民二百戸』。撒吉思卜華贈太師、諡忠武。明安答児贈太保、諡武毅、爵皆衛国公」
参考文献
[編集]- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
- 『元史』巻122列伝9