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ジョン・ウィリアム・オーグル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジョン・ウィリアム・オーグル (John William Ogle FRCP[1] FSA[2] , 1824年7月30日 - 1905年8月8日) はイギリス医師。1880年のハーヴィ講演者英語版[3][4]

オックスフォードトリニティ・カレッジで学び、1847年にB.A. (学士号) を取得した。セントジョージ病院英語版医学部での医療訓練ののち、1850年にL.R.C.P.となった。オックスフォードで1851年にM.A. (修士号) とB.M. (医学士号) を取得し1857年にD.M. (医学博士)を取得した。1855年にセントジョージ病院のF.R.C.P. となり、ヘンリー・グレイとともに病理解剖学の博物館のキュレーターであった。グレイは1861年に死亡し、オーグルが病理学の講師に就いた。1857年に医師助手となり1866年に医師となった。1869年にはクルーン講演英語版を行っている[5]ロイヤル・カレッジ・オブ・フィジシャン英語版では1873, 74, 84年の3年間検閲官をつとめ、1884年には副総長を務めた[6]

オーグルは医学文献に活発であった。ティモシー・ホームズ [q. v. Suppl. II] とともに、今はないセントジョージ病院報告を立ち上げ、10巻のうち7つを編集した。『ブリテン及び海外の内科外科医のレビュー』の編集員でもあった。彼は医学の論文や社会に広く貢献し、「ロンドン病理学会紀要」に1人で160もの投稿を行った。彼のバラバラに出された業績は1880年のロイヤル・カレッジ・オブ・フィジシャンで行われたハーヴィ講演である。そこにはもっと学術的な情報や、小さな業績である「腹部の穿刺による過度で危険な鼓膜炎の軽減」も含まれている[6]

1854年に結婚し5人の息子と1人の娘をもうけた。彼は敬虔な英国人であり、麻痺による衰弱に苦しんでいた最期までの数年間は息子の1人とハイゲートの牧師館で生活していた。

参考文献

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  1. ^ “Obituary. John William Ogle, M.D. Oxon., F.R.C.P. Lond., Consulting Physician to St. George's Hospital”. The Lancet: 564. (19 August 1905). doi:10.1016/s0140-6736(00)69698-8. https://books.google.com/books?id=rLhMAQAAIAAJ&pg=PA564. 
  2. ^ Society of the Antiquaries of London, 7 Juin 1877—15 Janv. 1880. p. 343. https://books.google.com/books?id=NUTUzb7NHTAC&pg=PA343 
  3. ^ “Obituary. John William Ogle”. British Medical Journal ii: 417–418. (19 August 1905). http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=chi.66454846;view=1up;seq=457. 
  4. ^ The Harveian oration, 1880; delivered 25 June, Hathi Trust Digital Library
  5. ^ Munk's Roll Details for John William Ogle
  6. ^ a b Humphry Davy Rolleston [in 英語] (1912). "Ogle, John William" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (2nd supplement) (英語). London: Smith, Elder & Co.