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ジョヴァンナ・ガルツォーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョヴァンナ・ガルツォーニ
Giovanna Garzoni
著書の自画像
生誕 1600年
イタリア,アスコリ・ピチェーノ
死没 1670年
イタリア,ローマ
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ジョヴァンナ・ガルツォーニ(Giovanna Garzoni、1600年1670年)はイタリアの画家である。

略歴

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イタリア中部の教皇領アスコリ・ピチェーノに生まれた[1]。両親はヴェネツィア出身の画家の家系であるとされるが、異論もみられる[2]。母方の祖父や叔父は金細工師で、別にヴェネツィアの画家パルマ・イル・ジョーヴァネの工房で学んだ画家 ピエトロ・ガイア(Pietro Gaia)も叔父である[3]。研究者のなかでは、ガルツォーニは1615年頃から、この叔父の工房で見習いとして美術を学んだと推定されている[4]。ガルツォーニは兄弟の一人、マティオともに、各地を旅して活動した。

ローマに住んだ後、1816年にローマの薬学者のジョヴァンニ・ヴォルヴィーノ(Giovanni Vorvino)に依頼されて薬用植物の図を描いた[1]。1820年にヴェネツィアに移り、難病病院(Ospedale degli Incurabili)の教会に装飾画を描いた。ヴェネツィアには数年間滞在し、Giacomo Rogniにカリグラフィー(美書法)を学び、カリグラフィーに関する書籍を作成した。[3]

1630年にマティオとヴェネツィアからナポリに移り、1年ほどナポリの総督(スペイン副王)からの仕事をし、1831年にローマに戻った。すぐにサヴォイア公国の公妃、クリスティーヌ・ド・フランスに招かれて、トリノの王室のミニアチュール画家として働いた。[5] 1632年から1637年の間、トリノに滞在した後、ミラノの女性画家、フェーデ・ガリツィアや静物画家のヌヴォローネと交流し[5]、1640年にはパリに旅し、1642年まで滞在した。ローマに戻り、ローマとフィレンツェを行き来して、メディチ家フェルディナンド2世・デ・メディチや大公妃ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレからの注文の仕事もした。[5]

1650年からはローマに住み、ローマで死去した。

作品

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参考文献

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  1. ^ a b Jordi Vigué. Great Women Masters of Art. (New York: Watson-Guptill, 2003), 77.
  2. ^ Jordi Vigué. Great Women Masters of Art. (New York: Watson-Guptill, 2003), 77.
  3. ^ a b Carole Collier Frick, Stefania Biancani, and Elizabeth S. G. Nicholson. Italian Women Artists: from Renaissance to Baroque. (Milano: Skira, 2007), 220.
  4. ^ Carole Collier Frick, Stefania Biancani, and Elizabeth S. G. Nicholson. Italian Women Artists: from Renaissance to Baroque. (Milano: Skira, 2007), 220–21.
  5. ^ a b c Carole Collier Frick, Stefania Biancani, and Elizabeth S. G. Nicholson. Italian Women Artists: from Renaissance to Baroque. (Milano: Skira, 2007), 221.