ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ Giovanni Battista Tiepolo | |
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ティエポロの壁画の一部でティエポロの自画像とされる部分 | |
生誕 |
Giambattista Tiepolo 1696年3月5日 ヴェネツィア |
死没 |
1770年3月27日 (74歳没) マドリード |
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(Giovanni Battista Tiepolo [ˈtjɛːpolo, ˈtjeː-], 1696年3月5日 - 1770年3月27日)は、バロック最後期のイタリアの画家。本名はジャンバッティスタ・ティエポロ(Giambattista Tiepolo)。彼は18世紀のイタリアを代表する偉大な画家であり、ヴェネツィア共和国の美術絵画の伝統を締めくくる最後の巨匠である。
生涯
[編集]1696年3月5日、ヴェネツィアに生まれる。6人兄弟の末っ子で、父親は船乗りであった。徒弟時代は歴史画の大家の一人であるグレゴリオ・ラッザリーニに師事するが[1]、セバスティアーノ・リッチやジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタの影響を強く受けた。1719年にヴェネツィアの画家フランチェスコ・グアルディの姉と結婚している。1761年に、スペイン王カルロス3世の依頼で、マドリードの宮廷の天井画を描くためにマドリードに移った。何点かの天井画や装飾画を描いたが[2]、同じくスペイン招かれた、新古典主義の画家、アントン・ラファエル・メングスとは対立が生じた。1770年3月27日、マドリードで死去。
バロック的な躍動感とロロコ的な優美な装飾性を兼ね備えていた画風は、生前はヨーロッパ全土で名声の極みを迎えたが、没後、台頭してきた新古典主義は甘美な装飾性を否定するものであったため、彼の評価も急速に下降した。
作風
[編集]ティエポロは稀代のフレスコ画の名手であり、瑞々しく壮麗な作風は底抜けに明るくきらびやかである。宮殿や貴族の館を彩る天井画は下方から見上げる仰視法を取り入れ、イリュージョンの効果を完璧なものとしている。初期の作品は同時代の画家であるフェデリコ・ベンコヴィチやピアツェッタと同様テネブリスムの影響が見られるが、ヴェネツィア派のティントレットやヴェロネーゼを受け継ぐ画風を見せ、それを躍動的に展開した[1]。
親族
[編集]彼の息子ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロとロレンツォ・バルディッセーラ・ティエポロも画家である。
代表作
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『受胎告知』
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《マリアの教育》
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《ロレートの聖家の奇蹟》
1743-1745年頃 -
十字架の称賛
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《クレオパトラの饗宴》
ラビア邸 -
《オリュンポス山と四大陸の寓意》
ヴュルツブルクのレジデンツ -
《ヒュアキントスの死》
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《ヴィーナスと時の寓意》
ナショナルギャラリー -
『マンドリンを持つ女』
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『スペイン王家の称揚』
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b プラド美術館 豊田訳 2015, p 208.
- ^ Wittkower 1973, p. 486.
- Wittkower, Rudolf (1993). Art and Architecture in Italy.