ジョージ・アシュモア・フィッチ
ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch、1883年 - 1979年)は、中国・蘇州市生まれのアメリカ人宣教師。キリスト教青年会(YMCA)南京支部長。ハロルド・J・ティンパーリ(中国国民党国際宣伝処顧問)編集『戦争とは何か』の共著者の1人。極東国際軍事裁判(東京裁判)には出廷せず、口述書のみを提出した。
略歴
[編集]1906年、ウースター大学で文学士号を得た後、ニューヨークのユニオン神学校に入学。
1909年、中国のYMCA組織「上海青年会」で働く。フィッチは上海で、中国人・朝鮮人の抗日・反日運動を支援した[1]。
1937年12月の南京攻略戦時、日中両軍の戦闘による被害から一般市民を保護するため設置された南京安全区国際委員会の一員であった。
1938年2月末、 南京事件(南京大虐殺)の模様を撮影したとされるフィルムを持って南京を脱出。アメリカ各地でこのフィルムの上映を行い、南京虐殺を宣伝した。
フィッチの妻は蔣介石の妻宋美齢と親しい友人であり、さらに中国軍は南京安全区内に高射砲陣地を設置したことに対する国際委員会の度重なる抗議にも退去しなかったがフィッチは蔣介石側に立って「唐生智将軍は安全地帯から軍隊と高射砲を一掃するという非常に困難な仕事に概して非常によく協力」と記している[2]。
米国の新聞報道によると、フィッチは南京攻略戦の時、蔣介石に任命された、"the War Service Corps"[3](the War Area Service Corps[4])の顧問であった。また蔣介石の個人的な友人とされる[5]。
1940年、フィッチは重慶で蔣介石軍への福祉活動を指導しており[6]、蔣介石・宋美齢と親しいとされる[7]。
1941年、中国工業組合(Chinese industrial cooperatives)の相談役に任命される[4][8]。 また、報道によれば、フィッチの妻は"Courageous China"・"United China Relief Society"という団体との関係があるとされる[9]。
脚注
[編集]- ^ "The George Fitch family, supporters of Korean independence activists",The Korea Herald, June 27, 2016.
- ^ 東中野 2003, pp.260-261
- ^ "Witness Tells Nanking Horrors",Oakland Tribune, from Oakland, California, June 12, 1938.
- ^ a b "George A. Witch Dies; Worked for Y.M.CA. In China for Decades",The New York Times, Jan 23, 1979.
- ^ "Witness to Tell Of Nanking Siege",Oakland Tribune, from Oakland, California, June 2, 1938.
- ^ "How China Fights On" - About the Writer,The Sedalia Democrat, from Sedalia, Missouri, December 22, 1940.
- ^ "'Y' Leader Says U.S. Must Hold Philippines",Pittsburgh Post-Gazette, from Pittsburgh, October 11, 1940.
- ^ "American Will Aid China In Running Cooperatives",The New York Times, May 28, 1941.
- ^ "Noted Lecturer To Speak Before Guilds",News-Journal, from Mansfield, Ohio, September 17, 1941.
参考文献
[編集]- 東中野修道『南京「虐殺」研究の最前線・平成十五年版』展転社、2003年 ISBN 4-88656-238-8
- 笠原十九司『南京難民区の百日 虐殺を見た外国人』岩波現代文庫、2005年 ISBN 978-4006001506