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ジョージ・キング (第3代キングストン伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第3代キングストン伯爵ジョージ・キング英語: George King, 3rd Earl of Kingston1771年4月28日[1]1839年10月18日)は、アイルランド王国出身の貴族、政治家。アイルランド庶民院議員、アイルランド貴族院議員、アイルランド貴族代表議員を歴任した。1797年から1799年までキングスバラ子爵儀礼称号を使用した[2]

生涯

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第2代キングストン伯爵ロバート・キングとキャロライン・フィッツジェラルド(Caroline FitzGerald、1755年[3] – 1823年1月13日、リチャード・フィッツジェラルド英語版の娘)の息子として、1771年4月28日にメイフェアチェルシーで生まれ、同地で洗礼を受けた[2]。1781年から1787年までイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1787年11月20日にオックスフォード大学エクセター・カレッジに入学した[4]

オレンジ結社英語版(1795年設立)の原加盟メンバーの1人だった[5]1798年アイルランド反乱英語版では民兵隊を率いてコーク県ウェックスフォード県を転戦、その残忍ぶりで知られた[5]。ウェックスフォード県では一時捕虜にされたが、ジェラード・レイク英語版に救出され、処刑を免れた[5]

1797年から1799年までロスコモン・カウンティ選挙区英語版の代表としてアイルランド庶民院議員を務め[1]、1799年4月17日に父が死去するとキングストン伯爵位を継承、同年5月2日にアイルランド貴族院議員に就任した[2]。庶民院では1799年合同法案に反対票を投じ[5]、貴族院では1800年合同法に反対票を投じた[2]

親カトリック派トーリー党に所属し、1807年から1839年までアイルランド貴族代表議員を務めた[2]

1821年戴冠式記念叙勲英語版連合王国貴族であるコーク県におけるミッチェルズタウンのキングストン男爵に叙された[2][6]

1839年10月18日にパディントンで死去、息子ロバート・ヘンリー英語版が爵位を継承した[2]。死後、遺体はミッチェルズタウン英語版に運ばれ、そこで埋葬された[5]

家族・私生活

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1794年5月7日、ヘレナ・ムーア(Helena Moore、1773年5月20日 – 1847年12月9日、初代マウント・ケッシェル伯爵スティーブン・ムーアの娘)と結婚、3男2女をもうけた[7]

  • ヘレナ・キャロライン(1871年5月9日没) - 1829年12月8日、フィリップ・デイヴィス=クック(Philip Davies-Cook、1793年8月11日 – 1853年11月20日、ブライアン・クックの息子)と結婚、子供あり
  • エドワード(1795年 – 1837年) - 庶民院議員、生涯未婚
  • ロバート・ヘンリー英語版(1796年 – 1867年) - 第4代キングストン伯爵
  • ジェームズ英語版(1800年 – 1869年) - 第5代キングストン伯爵
  • アデレード・シャーロット(1854年8月没) - 1834年、チャールズ・タンカーヴィル・ウェッバー(Charles Tankerville Webber)と結婚、子供あり

アイルランド有数の地主であり、1799年時点の領地から毎年18,000ポンドの収入が得られた[2]。1823年に母が死去するとミッチェルズタウン英語版の領地を継承したが、キングストン伯爵はミッチェルズタウン城英語版を大々的に改築して、国王ジョージ4世がアイルランドを訪問するときに住めるよう準備した[5]。しかし、10万ポンドかかったとも、20万ポンドを費やしたとも言われたこの改築により破産に近い状態に陥り、1832年には神経衰弱により精神病院に入院、以降死去まで退院しなかった[5]

出典

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  1. ^ a b "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800". Ulster Historical Foundation (英語). 2020年8月17日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume VII: Husee to Lincolnshire. Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 299–301.
  3. ^ Carter, Peter (4 October 2007) [2004]. "King, Robert, second earl of Kingston". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/15597 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (英語). Vol. 2. Oxford: University of Oxford. p. 794.
  5. ^ a b c d e f g Murphy, David (2009). "King, George". In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi:10.3318/dib.004560.v1
  6. ^ "No. 17724". The London Gazette (英語). 14 July 1821. p. 1461.
  7. ^ "Kingston, Earl of (I, 1768)". Cracroft's Peerage (英語). 24 January 2007. 2020年8月17日閲覧

外部リンク

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アイルランド議会
先代
サー・エドワード・クロフトン準男爵英語版
アーサー・フレンチ英語版
庶民院議員(ロスコモン・カウンティ選挙区英語版選出)
1797年 – 1799年
同職:アーサー・フレンチ英語版
次代
トマス・マオン英語版
アーサー・フレンチ英語版
アイルランドの爵位
先代
ロバート・キング
キングストン伯爵
1799年 – 1839年
次代
ロバート・キング英語版
イギリスの爵位
爵位創設 キングストン男爵
1821年 – 1839年
次代
ロバート・ヘンリー・キング英語版