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ジョージ・ゴードン (第15代サザーランド伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ホリールード寺院にある第15代サザーランド伯爵の墓。2018年撮影。

第15代サザーランド伯爵ジョージ・ゴードン英語: George Gordon, 15th Earl of Sutherland1633年11月2日1703年3月4日)は、スコットランド貴族

生涯

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第14代サザーランド伯爵ジョン・ゴードン英語版と1人目の妻ジーン(Jean、旧姓ドラモンド(Drummond)、1637年12月29日没、初代パース伯爵ジェームズ・ドラモンドの娘)の次男(長男ジョンは1637年10月14日に天然痘により病死)として、1633年11月2日にドーノック英語版で生まれた[1]。1654年8月に弟ロバート(1635年12月31日 – 1671年)とともにロンドンに向かった[1]。2人はスペイ川からヨークまで乗馬で進み、ヨークからロンドンまでは1週間の間馬車に乗った[1]。その道中での観光、学び、書籍の購入などに関する記述が詳しく残されている[1]。1656年5月に帰途についたが、1660年6月に今度は妻とともにロンドンに向かい、王政復古の後のチャールズ2世に謁見した[1]

1662年2月に父からサザランドでの領地を与えられた[1]。政情不穏な時期だったため、第6代ケイスネス伯爵ジョージ・シンクレア英語版と協力して騒動を鎮めようとしたが、あまり成果が上がらなかった[1]

1679年10月14日に父が死去すると、サザーランド伯爵位を継承した[1]。1680年6月に一旦爵位を返上して[1]、1681年6月24日に再叙爵(ノヴォダマス)を受けた[2]。その後は出国し、1685年11月にはロッテルダムで妻と合流した[1]

ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)を支持しなかったとされ、1688年にオラニエ公ウィレム3世がイングランドに上陸したときにそれに追随して帰国した[1]。1689年3月14日にエディンバラで招集された仮議会英語版に出席しており、以降も断続的ながらスコットランド王国議会英語版に登院した(最後の登院は1700年10月[1])。

1703年3月4日に死去、ホリールード寺院に埋葬された[1]。息子ジョンが爵位を継承した[1]。死後、妻がホリールード寺院で記念牌を立て、その碑銘は初代クロマーティ伯爵ジョージ・マッケンジー英語版が書いたとされる[1]

家族

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1659年8月11日、ジーン・ウィームズ(Jean Wemyss、1715年1月5日没、第2代ウィームズ伯爵デイヴィッド・ウィームズの娘)と結婚、6人の子女をもうけた[1]

  • ジョン(1661年3月2日洗礼 – 1733年6月27日) - 第16代サザーランド伯爵[1]
  • アンナ(1663年8月14日洗礼 – 1695年6月) - 1683年5月3日、第3代アーバスノット子爵ロバート・アーバスノットと結婚、子供あり[1][3]
  • ジーン(1665年4月24日 – 1680年までに没[1]
  • デイヴィッド(1670年12月22日 – ?) - 1670年12月29日洗礼[1]
  • ほか子女2人(それぞれ1666年6月7日、1668年6月24日埋葬[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u Paul, James Balfour, Sir, ed. (1911). The Scots Peerage (英語). Vol. VIII. Edinburgh: David Douglas. pp. 350–354.
  2. ^ Cokayne, George Edward, ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 346.
  3. ^ Burke's Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (99th ed.). London: Burke's Peerage Limited. 1949. p. 70.
スコットランドの爵位
先代
ジョン・ゴードン英語版
サザーランド伯爵
1679年 – 1703年
次代
ジョン・サザーランド