スック・ヴォンサック
スック・ヴォンサック Souk Vongsak | |
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生年月日 | 1915年1月13日 |
出生地 | ルアンパバーン |
没年月日 | 1983年 |
所属政党 | ラオス人民革命党 |
内閣 | カイソーン・ポムウィハーン内閣 |
在任期間 | 1975年12月2日 - 1983年 |
国家主席 | スパーヌウォン |
内閣 | スワンナ・プーマ内閣 |
在任期間 | 1974年4月5日 - 1975年11月28日 |
ラオス国王 | サワーンワッタナー |
スック・ヴォンサック(Souk Vongsak、1915年1月13日 - 1983年)は、ラオスの王族、政治家。ラオス人民革命党中央委員。殿下 (Chao) の称号を持つ。
経歴
[編集]フランス統治時代の1915年、ルアンパバーン国王ウンカムの曾孫、Kham-Phanek の孫、Boun Khong の子として、王都ルアンパバーンに生まれた。
第二次世界大戦後、旧宗主国のフランスがラオスの再占領を図ると、ペッサラート殿下を中心に対仏抵抗組織ラーオ・イサラ(自由ラオス)が結成され、1945年10月、ヴォンサックもこれに参加した。1946年、フランス軍に追われタイに亡命。
1949年、ラーオ・イサラ亡命政府が分裂したとき、ヴォンサックはスパーヌウォン殿下らとともに抵抗運動を継続。1950年8月、ネーオ・ラーオ・イサラ(ラオス自由戦線)が結成されると、同戦線中央委員に選出され、「ラオス抗戦政府」教育大臣に就任した。1956年1月、ネーオ・ラーオ・イサラ全国大会において、組織はネオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)に改組され、ヴォンサックは中央委員に選出された。
1957年、王国政府と左派ネーオ・ラーオ・ハクサートの間で停戦協定が結ばれ、翌1958年5月、国民議会補充選挙が実施された。ヴォンサックはネオ・ラーオ・ハクサートの候補としてルアンパバーン選挙区から立候補し、国民議会議員に当選した。しかし、右派プイ・サナニコーンが政権を握ると、左派は排除され、内戦が再開した。
1962年、再度停戦協定が結ばれると、同年6月23日、スワンナ・プーマを首班とする第2次連合政府が樹立され、ヴォンサックは公共事業・運輸担当次官として参画した。その後、中立派要人の暗殺事件を機に首都ヴィエンチャンは政情不安となり、1963年には解放区に引き揚げた。
1964年4月、ネオ・ラーオ・ハクサート第2回全国大会において中央委員に再選出。1970年7月、スパヌーウォンの特使としてヴィエンチャンに派遣され、プーマ首相らと会談。1972年2月、ラオス人民革命党第2回党大会で中央委員候補に選出され、党内序列第25位となる[1]。同年10月、和平交渉代表団の次席代表として政府との会談に臨んだ。
1974年4月5日、第3次連合政府が成立すると、情報大臣に就任。
1975年12月、無血革命によりラオス人民民主共和国が建国されると、カイソーン内閣の保健大臣に就任した。
1982年4月、第3回党大会で中央委員に選出され、序列第15位となる。
脚注
[編集]- ^ 山田(2010年3月)、37ページ。山田「ラオス内戦史資料」では中央委員。
参考文献
[編集]- 『1971年のインドシナ』アジア経済研究所、1972年。doi:10.20561/00039406。hdl:2344/00001676 。「ZAD197200_009」
- 山田紀彦「ラオス内戦史資料(1954年-1975年)」武内進一編『アジア・アフリカの武力紛争―共同研究会中間成果報告』アジア経済研究所、2002年3月
- 山田紀彦「ラオス人民革命党第7回大会 ― 残された課題 ― 」石田暁恵編『2001年党大会後のヴィエトナム・ラオス ― 新たな課題への挑戦』アジア経済研究所、2002年3月
- 山田紀彦「研究ノート ラオス 政策決定過程における民意反映メカニズムの実態 : 経済・社会開発年次計画とSEZ計画作成過程の事例から」『アジア経済』第49巻第8号、日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年8月、28-60頁、CRID 1390853651003780992、doi:10.20561/00040901、hdl:2344/00007235、ISSN 00022942。
- 山田紀彦「ラオス人民革命党による地方管理体制の構築過程」山田紀彦編『ラオス チンタナカーン・マイ(新思考)政策の新展開』アジア経済研究所、2010年3月
- プーミー・ヴォンヴィチット『激動のラオス現代史を生きて ― 回想のわが生涯』(めこん、2010年)