スディロ
スディロ Soediro | |
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生年月日 | 1911年4月24日 |
出生地 | オランダ領東インド、ジョクジャカルタ |
没年月日 | 1992年4月18日(80歳没) |
死没地 | インドネシア、ジャカルタ |
配偶者 | シティ・ジャウハリ・スディロ |
子女 | トラ・スディロ |
ジャカルタ第3代市長 | |
在任期間 | 1953年12月8日 - 1960年1月29日 |
大統領 | スカルノ |
スラウェシ州第2代知事 | |
在任期間 | 1951年 - 1953年 |
大統領 | スカルノ |
ラデン・スディロ(インドネシア語: Raden Soediro, 1911年4月24日 - 1992年4月18日)は、インドネシアの政治家。同国ジャカルタ第3代市長、スラウェシ州第2代知事を務めた。
経歴
[編集]1911年4月24日にオランダ領東インド、ジョクジャカルタにて誕生する。スエディロは教員養成学校で教育を受けた。
インドネシア独立以前、スディロはジョン・ジャワやパルタイ・インドネシアといったさまざまな民族主義組織で活動した。教育活動にも積極的で、1931年から1933年にかけては中等学校の校長を務め、その後1933年から1936年にかけてはマディウンのタマンシスワの校長を務めた。1936年から1937年にかけては、エルネスト・ダウエス・デッケルの助手を務めた。
日本がオランダ領東インドを占領していた時代、スディロは日本が結成したジャワ奉公会の武装組織である推進体の指導者のひとりとなった。1945年のインドネシア独立宣言の直後、スカルノのために高級車を手に入れようと考えた。スディロの計画は、日本の鉄道局長が所有していたビュイックのリムジンを盗むことであった。スディロは顔見知りの日本人官吏の運転手に近づき、鍵を渡して故郷に帰ることで盗難に協力するよう運転手を説得した。しかし、スディロも彼のグループも運転の仕方を知らなかった[1]。また1945年には、再結成されたばかりのインドネシア国民党の党員となり、推進体の後継者であるバリサン・バンテンの指導者の一人となった。スディロは1946年にスラカルタ副知事となり、その後1947年から1950年の間駐在し、1950年から1951年の間はマディウン駐在官となった。1951年から1953年にかけてはスラウェシ州知事を務めた。1951年7月に就任し、スラウェシ島中央部をパルとドンガラ行政区に分割するなど、スラウェシ島に行政区を設定した[2]。様々な役職に就いていた間、スディロは制憲議会議員にもなった。
1953年12月、マシュミのシャムスリジャルに代わってジャカルタ市長に任命された。就任直後の1954年1月、スディロは市の地方選挙委員会を再編成したが、これは大規模な抗議を招く結果となった[3]。スディロ政権下では、ジャカルタの成長に伴い、北ジャカルタ、中央ジャカルタ、南ジャカルタの3つの行政都市への分割が必要となった。1958年までに、ジャカルタが州に昇格したため、スディロの地位は知事に昇格した。
スディロの政権では、イスティクラルとホテル・インドネシアの建設が準備され、ほとんど成功しなかったにもかかわらず、スエディロはジャカルタの路面電車と史跡の保存のために奮闘した。スディロはまた、1940年代の日本の行政に基づく新しい行政単位制度を導入し、ルクン・トゥタンガとルクン・ワルガの制度を導入して、地区とブロックレベルで市政を行った。任期中、スディロはスカルノ大統領から大きな干渉を受けた。一例として、1957年にスカルノ政権によって初等教育が一時的に無償化されたが、1年後に中央政府によってこの政策は覆された。
1959年12月、スディロは知事選に出馬しないことを選択し、スマルノ・ソスロアトモジョが後任となった。政界引退後は教育者として活動を続けた[4]。1992年4月18日に死去。
脚注
[編集]- ^ Shiraishi, Saya S. (2018) (英語). Young Heroes: The Indonesian Family in Politics. Cornell University Press. p. 40. ISBN 9781501718908
- ^ (インドネシア語) Sejarah Daerah Sulawesi Tengah. Direktorat Jenderal Kebudayaan. (1984). p. 156
- ^ Feith, Herbert (2006) (英語). The Decline of Constitutional Democracy in Indonesia. Equinox Publishing. p. 184. ISBN 9789793780450
- ^ “Sudiro, Pencetus Ide Pembangunan Monas” (インドネシア語). Okezone. (16 November 2012) 7 March 2019閲覧。