ストラタジェム (潜水艦)
HMS ストラタジェム | |
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マージー川を航行中の「ストラタジェム」 (1944年9月撮影) | |
基本情報 | |
建造所 | バーケンヘッド、キャメル・レアード |
運用者 | イギリス海軍 |
級名 | S級潜水艦 |
艦歴 | |
発注 | 1941年8月3日 |
起工 | 1942年4月15日 |
進水 | 1943年6月21日 |
就役 | 1943年10月9日 |
最期 | 1944年11月22日に戦没 |
要目 | |
満載排水量 |
865ロングトン (879 t)(水上) 990ロングトン (1,010 t)(水中) |
全長 | 217 ft (66 m) |
最大幅 | 23 ft 9 in (7.24 m) |
吃水 | 14 ft 8 in (4.47 m) |
主機 |
海軍本部式ディーゼル機関 1,900馬力×2基 電動機1,300馬力×2基 |
推進器 | 2軸推進 |
最大速力 |
15ノット (28 km/h; 17 mph)(水上) 10ノット (19 km/h; 12 mph)(水中) |
航続距離 |
6,000海里 10ノット時(水上) 120海里 3ノット時(水中) |
潜航深度 | 300フィート (91.4 m) |
乗員 | 48名 |
兵装 |
21インチ(533mm)艦首魚雷発射管×6門(内蔵式6門) 21インチ(533mm)艦尾魚雷発射管×1門(外装式1門) 魚雷13本 3インチ単装砲×1門 20ミリ単装機銃×1門 7.7ミリ単装機銃×3基 |
レーダー | 291型レーダー |
ソナー | 129型AR型または138型ASDIC |
その他 | ペナント・ナンバー:P234 |
ストラタジェム (HMS Stratagem, P234) は、イギリス海軍の潜水艦。S級潜水艦第3グループの1隻。
艦名は「戦略、策略」という意味の名詞に由来し、イギリス海軍においてこの名を持つ唯一の艦である[1]。艦名を反映し、本艦の船紋章は「トロイの木馬」であった[2]
艦歴
[編集]「ストラタジェム」は1941年度計画に基づき1941年8月3日にバーケンヘッドのキャメル・レアードへ発注され、1942年4月15日起工、1943年6月21日進水し、1943年10月9日に初代艦長レジナルド・ルイス・ウィロビーRNR大尉の指揮の下就役した[3]。
最初の哨戒
[編集]ホーリー・ロッホで整調中、右舷ディーゼル機関に不調が発見され修理を行った。クライド、アローチャー等いくつかの港湾で試験や演習を行った後、「ストラタジェム」は1944年1月3日にスコットランドのラーウィックから最初の哨戒に出た。この哨戒の目的は、ノルウェー沖でのUボート捜索であった。しかし、会敵はないまま1月15日にラーウィックへ帰還した[3]。
2回目の哨戒
[編集]シェアーネスとポーツマスでの入渠後、「ストラタジェム」は3月27日に艦長となったクリフォード・レイモンド・ペリー大尉の指揮の、3月31日にプリマスからジブラルタルへ向かった。2回目の哨戒でも会敵はなく、4月14日ジブラルタルへ到着。姉妹艦「シックル」と「スピリット」と共に、4月18日「ストラタジェム」は輸送船団USG38船団に加入してマルタへ移動、そこで対潜演習に参加した[3]。
引き続き「ストラタジェム」は東進を続け、5月16日ポートサイド着。さらにスエズ運河を通過して紅海、そしてインド洋へ入り、アデンを経由して6月10日にセイロン島 トリンコマリーへ到着した[3]。
3回目の哨戒
[編集]イタリア海軍通報艦「エリトリア」等との演習後、「ストラタジェム」は6月27日にトリンコマリーを出撃し、極東では初となる3回目の哨戒に向かった。7月1日、「ストラタジェム」はポートブレア沖北緯11度36分 東経92度50分 / 北緯11.600度 東経92.833度で魚雷艇2隻と対潜トロール船1隻に護衛された1,100トン級輸送船を発見し、魚雷4本を発射して爆発音を聴取したが実際は命中していなかった。魚雷艇からの爆雷による反撃があったが被害はなかった[3]。
7月2日、「ストラタジェム」は北緯11度37分 東経92度54分 / 北緯11.617度 東経92.900度地点でポートブレアから出港してきた2,000トン級商船と護衛の駆潜艇2隻を発見。魚雷6本を発射したが、魚雷はすべて外れて陸地に当たり爆発した。7月4日、大雨の中北緯09度22分 東経92度40分 / 北緯9.367度 東経92.667度地点で同じ商船を発見し魚雷2本を発射したが、こちらも爆発音を聴取したものの実際は命中していなかった。戦果がないまま「ストラタジェム」は7月7日にトリンコマリーへ帰投した[3]。
4回目・5回目の哨戒
[編集]駆逐艦との対潜演習後、7月31日に「ストラタジェム」はトリンコマリーから4回目の哨戒に向かった。今回の目的地はタイ西岸であったが、会敵はなく8月22日にトリンコマリーへ帰還した[3]。
試験と演習後、1944年9月16日に「ストラタジェム」は5回目の哨戒に出撃する。艦長ペリー大尉が休暇中であったため、この哨戒では臨時にアンソニー・ロバート・プロフィット大尉が代わって指揮を執った[3]。9月30日、「ストラタジェム」は大ココ島のフォード湾に浮上して島の建物や倉庫に艦砲射撃を行った。その後、10月5日にトリンコマリーへ帰還して哨戒を終えた[3]。
6回目の哨戒・最期
[編集]11月10日、トリンコマリーを出撃した「ストラタジェム」は復帰したペリー大尉の指揮の下でマラッカ海峡へ6回目の哨戒に向かう。ここで「ストラタジェム」は生涯において最初で最後となる戦果を得ることになった。11月19日、「ストラタジェム」はマラッカ海峡の北緯09度22分 東経92度40分 / 北緯9.367度 東経92.667度地点でシンガポールからスマトラ島パンカランススへ航行中の商船5隻と護衛の「第三十四号駆潜艇」からなる輸送船団を発見。そのうち、応急タンカー「日南丸」(日東洋行、1,945トン)に雷撃を行い沈めた[3][4]。
1944年11月22日、「ストラタジェム」は日本の水上機に発見され、駆け付けた駆潜艇「第三十五号駆潜艇」の爆雷攻撃を受けた[5]。最初の爆雷攻撃で「ストラタジェム」の艦首は海底に衝突し、浸水が発生。前方の水密隔壁を閉鎖できず浮上を余儀なくされた。乗員は「ストラタジェム」を自沈させ、減圧症に苦しみながらも脱出した10名が「第三十五号駆潜艇」に救助されて捕虜となり、シンガポールへ移送された。しかし、10名のうち9ヶ月後の終戦まで生き残ることができたのは3名に過ぎなかった[3][5][6]。
脚注
[編集]- ^ J. J. Colledge; Ben Warlow (2010). Ships of the Royal Navy: The Complete Record of all Fighting Ships of the Royal Navy from the 15th Century to the Present. Newbury, Berkshire: Casemate. p. 385. ISBN 978-1935149071
- ^ “HMS Stratagem, Royal Navy.jpg”. heraldry-wiki.com. 12 May 2024閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “HMS Stratagem (P 234)”. uboat.net. 12 May 2024閲覧。
- ^ “日南丸の船歴”. 大日本帝國海軍特設艦船. 12 May 2024閲覧。
- ^ a b Bob Hackett、Sander Kingsepp. “IJN Subchaser CH-35:Tabular Record of Movement”. combinedfleet.com. 12 May 2024閲覧。
- ^ Akermann, p. 245
参考文献
[編集]- Akermann, Paul (2002). Encyclopaedia of British Submarines 1901–1955 (reprint of the 1989 ed.). Penzance, Cornwall: Periscope Publishing. ISBN 978-1-904381-05-1
- Bagnasco, Erminio (1977). Submarines of World War Two. Annapolis, Maryland: en:Naval Institute Press. ISBN 978-0-87021-962-7
- Chesneau, Roger, ed (1980). Conway's All the World's Fighting Ships 1922–1946. Greenwich, UK: en:Conway Maritime Press. ISBN 978-0-85177-146-5
- Heden, Karl Eric (2006). Sunken Ships, World War II: U.S. Naval Chronology Including Submarine Losses of the United States, England, Germany, Japan, Italy. History Reference Center: Branden Books. ISBN 0828321183