スマトラ (軽巡洋艦)
艦歴 | |
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発注 | 1915/6年計画 |
起工 | 1916年7月15日 |
進水 | 1920年12月29日 |
就役 | 1926年5月26日 |
その後 | 1944年6月9日海没処分 |
除籍 | 1944年4月29日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:6,670t、満載:8,210t |
全長 | 153.3m |
全幅 | 16.0m |
吃水 | 5.50m |
主缶 | ソーニクロフト式水管缶6基 |
機関 | ツェリー式オールギヤードタービン3基3軸推進(出力7万2千馬力) |
最大速 | 31.0kt[注釈 1] |
航続距離 | 12.0kt 4,800浬 |
兵員 | 480名[2] |
兵装 | 50口径15cm単装砲10門 7.5cm単装高角砲4門 機雷12個[2] |
航空機 | 2機[3] |
スマトラ (オランダ語: Hr. Ms. Sumatra) は、オランダ海軍の軽巡洋艦[注釈 2]。ジャワ級軽巡洋艦の2番艦[4]で、艦名はスマトラ島にちなむ[注釈 3]。
艦歴
[編集]スマトラはネーデルランズ・シープスバウ・マーチカッピのアムステルダム造船所において1916年(大正5年)7月15日に起工した。第一次世界大戦のため建造が遅れ、1920年(大正9年)12月29日に進水、1926年(大正15年)5月26日に竣工した[4]。 9月21日、オランダのアムステルダムを出発する[注釈 4]。 ヨーロッパから大西洋を横断し、西インド諸島、北アメリカ大陸のメキシコを訪問、パナマ運河を経由して[3]、サンフランシスコに寄港した[注釈 5]。サンフランシスコで16名の脱走者を出したあと[6]、そこからハワイ諸島のオアフ島ホノルルに移動して太平洋を横断し[3][7]、極東にむかう[8]。
1927年(昭和2年)1月中旬、スマトラ[9]の日本訪問の予定が組まれる[10][11]。 その頃、大日本帝国においては大正天皇の大喪儀を準備しており、日本海軍の各艦は日本列島各地に配備される[12]。 2月3日、スマトラは東京湾に入り横浜に到着した[13][14]。 2月7日から8日にかけて、大喪の礼がおこなわれた[15]。品川沖合には戦艦3隻(長門、金剛、山城)などが、横浜港には装甲巡洋艦春日(艦長太田質平大佐)が配備される[16]。スマトラは春日の隣に停泊していた[17]。ショーレル大佐(スマトラ艦長)はオランダ大使館員と共に大喪の義に参列した[注釈 6]。
2月9日、スマトラ艦長や乗組員は横須賀に招待され[19]、同港に停泊中の扶桑型戦艦山城を見学した[20]。 その後、スマトラは横浜を出発し[21]、神戸に入港する[22][注釈 7]。 瀬戸内海を経由して[25]、関門海峡経由で中国大陸に向かう[14]。 なおスマトラが瀬戸内海を通過する際に乗組員が水先案内人の制止を無視して動画を撮影し[26]、下関海峡では日本陸軍の下関要塞を写真撮影した疑いが生じた[27][28]。
5月、スマトラは再び日本を訪問する[29][30]。上海を出発後、5月14日長崎港に到着した[31][32]。下関要塞の件があって日本側は注意をはらっていたが[28]、特に問題も起きず、艦長以下乗組員は長崎市の名所を観光するなどして過ごした[33][34]。 18日に三菱造船長崎造船所を見学した際には、艤装工事中の重巡洋艦「青葉」に興味を抱いていたという[注釈 8][注釈 9]。 5月19日[30]、スマトラは長崎を出港して蘭印に向かった[32][38]。
1931年(昭和6年)5月14日、未知の暗礁で座礁した[39]。 1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)半ばまで、スマトラはスラバヤで近代化改修工事をおこなった。1936年(昭和11年)11月中旬、ヘルフリッヒ提督は「ジャワ」と「スマトラ」および駆逐艦3隻のオランダ艦隊を率いてシンガポールを訪問し、イギリス海軍の中国艦隊や、アメリカ海軍のアジア艦隊(旗艦オーガスタ)などと同港に投錨した[注釈 10]。 1938年(昭和13年)7月、本艦はオランダに戻った。
1939年(昭和14年)9月、第二次世界大戦が勃発したが、オランダ王国は中立を宣言した(オランダの歴史)。 1940年(昭和15年)5月10日、ドイツ軍がオランダ侵攻を開始、西部戦線は大きく動いた。本艦はオランダのフリシンゲンに所在しており、5月11日にイギリスへ脱出した[注釈 11]。ナチス・ドイツはイギリス本土上陸作戦の準備にかかったので、スマトラはユリアナ王女や家族を乗せてイギリスを出発、カナダに移動した。
同年6月から8月まではカリブ海で活動した[4][注釈 12]。次いでフリータウンやケープタウンなどを経由して東南アジアへ移り、ジャワ島スラバヤで修理のために退役した[4]。
1941年(昭和16年)12月8日、大日本帝国が南方作戦を発動して太平洋戦争が始まった。蘭印作戦の進展にともなってオランダ領東インドにも日本軍が迫り、極東の連合国は窮地に陥る。スラトラは機関修理未了のまま1942年(昭和17年)1月17日に再就役し、セイロン島コロンボへ移った[注釈 13]。それからイギリスへ向かい、10月に到着した。
その後はイギリスに留まり、1944年(昭和19年)6月9日、ノルマンディー上陸作戦にともなうマルベリー人工港建造において、ソードビーチの防波堤として沈められた[4]。自由フランス海軍のクールベ級戦艦 (Classe Courbet) クールベ (Courbet) [41]、イギリス海軍のD級軽巡ダーバン (HMS Durban) なども[42]、防波堤として一緒に沈んだ。本艦に搭載されていた主砲は、フローレス級砲艦に転用された。
参考文献
[編集]- 月間雑誌「丸」編集部編『丸季刊 全特集 写真集 世界の戦艦 仏伊ソ、ほか10ヶ国の戦艦のすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977』株式会社潮書房〈丸 Graphic・Quarterly 第29号〉、1977年7月。
- 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3。
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『和蘭国軍艦乗組員要塞地帯撮影に関する件』。Ref.C01003720600。
- 『外国艦船の大喪儀当日儀礼施行の状況報告の件』。Ref.C04015533300。
- 『海図返却の件』。Ref.C04015564200。
- 『公文備考 艦船4 巻33(防衛省防衛研究所)』。Ref.C04015612900。
- 『和蘭軍艦「スマトラ」入港に関する件』。Ref.C04015613000。
- 『和蘭軍艦「スマトラ」入港に関する件』。Ref.C04015613300。
- 『和蘭軍艦「スマトラ」乗組士官に無賃乗車証発給に関する件』。Ref.C04015613200。
- 『外国人本艦観覧の件』。Ref.C04015991500。
- 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071974300。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『昭和二年度 海軍省年報』海軍大臣官房、1933年4月 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻1(1937年印刷)』海軍大臣官房、1937年 。
- 海軍大臣官房『大正天皇御大喪写真帖』大日本国民教育会、1927年3月 。
- 外務省『大正天皇大喪紀要』外務大臣官房人事課、1927年5月 。
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 和蘭巡洋艦スマトラ 答禮のため八日入港 修理の都合で或は延期[1](中略)同號は最新式の戰闘巡洋艦で高速度一時間三十一ノツト餘を有するもので今回の巡航には艦長としてジー・エル・ショラー大佐が乗艦し士官二十六名、下士官三十九名、兵員二百九十七名である、同號は當地に數日間確泊して日本に赴くので其れより蘭領印度の航海艇根據地に廻航すると言ふとである(記事おわり)
- ^ (オランダ海軍)ジャワ級巡洋艦 植民地警備用に計画された第一次世界大戦型の軽巡洋艦[4]。
- ^ スマトラの艦名を冠するオランダ海軍の艦艇一覧。先代は防護巡洋艦スマトラ(1907年売却)。
- ^ 最新式を誇る和蘭巡洋艦來航 日本では先帝陛下の御大喪に参列せん 十八日横濱へ向け出港[3] 昨年進水同年九月アムステルダムに於いて就役した和蘭巡洋艦スマトラ號は蘭領東インドへ巡航のため巴奈馬運河經由昨朝桑港より入港、アームストロニング砲臺と禮砲交換を行ひ 第五號半 桟橋へ繋留したが、同艦は長さ五百十六呎 幅五十四呎、喫水二十二呎 速力三十一節七千五百噸の最新式軍艦で艦長ヂヨーヂエル・スコラー大佐以下三十九名の士官と二百七十八名の乗組員を有して居るが蘭領印度に到達の曉には乗組員は将卒合せ五百三名に増加する筈である。同艦は昨年九月二十一日アムステルダムを出港西印度諸島や墨西哥を訪問し運河經由今回當港に到着せしもので來る十八日横濱に向け出港す可く、日本に於ては多分 先帝陛下 の御大喪に陸戰隊を参加せしむる筈である。同艦は五吋九砲十門と小砲飛行機射撃砲等多數を有し水上飛行機二臺も搭載して居るがマストラ到着の上は同島根據地を中心に蘭印東警備の任に當る筈。當市合同娯樂會社では乗組員に無料活動寫眞觀覧券を進呈しフアーリントン知事や他の官憲は士官の歡迎晩餐會を催す筈(記事おわり)
- ^ 和蘭巡洋艦スマトラ號廿二三日頃入港[5] 在當地オランダ領事館に達したラヂオによるとオランダ巡洋艦スマトラ號は本月廿二三日頃桑港に入港し數日間碇泊の豫定であるがオランダ巡洋艦の來航は歐洲大戰開始以來初めてのことなので當地官民は大々的にスマトラ號乗組員を歡迎すべく準備中である數ヶ月前オランダの潜水艦ケイ第十三號が來航したことはあるけれど、巡洋艦の來航は久し振に属する。(記事おわり)
- ^ 第三項 蘭國軍艦「スマトラ」艦長「ショーレル」大佐[18] 大喪儀ニ付外國ヨリ軍艦派遣ノ申出アリタルトキハ之ヲ辭退スルコト又若シ來航スルモ兵ヲ上陸参列セシメス單ニ艦長司令官等ノミ大公使館員席ニ参列セシムルコトニ大喪使儀式部會議ニ於テ決シタリ今囘外國軍艦ニシテ態々來航シタルモノナカリシモ豫テ本邦來航ノ豫定ナリシ蘭國軍艦「スマトラ」ハ二月三日横濱ニ入港シ大喪ニ付弔意ヲ表セリ同艦長海軍大佐「ヨンクヘール、ショーレル」ハ大喪儀ニ参列ヲ許サレ其ノ席ハ大公使館員ト同席ニシテ服装ハ正装裳章附着トセリ
- ^ 2月16日時点の神戸港では[23]、神戸川崎造船所において前年10月24日に進水した重巡洋艦衣笠の艤装工事をおこなっていた[24]。
- ^ 青葉(8インチ砲連装砲塔3基6門、魚雷発射管12、公表基準排水量7,300トン、公表速力33ノット)は1924年(大正13年)2月4日に起工、1926年(大正15年)9月25日に進水[35]、1927年(昭和2年)9月20日に竣工した[36]。
- ^ (中略)[37] 四、案内中特ニ注意ヲ喚起スヘキ程ノモノナカリシモ質問ハ主トシテ目下艤装中ニシテ海上ニ露出セル軍艦青葉ニ關スルモノ多ク要目ハ公表セルモノヲ申述ベ置ケリ。 工場巡覧中着眼平凡ニシテ大砲ハ全部英國製ナリヤトノ質問ヲ聞キ彼等ノ限界ノ程度ヲ推知シ得タリ
五、雑件(イ)見學打合セノ爲該艦ニ至リシ時ノ所感トシテ艦内ハ能ク整頓シ軍規風紀可ナルヲ直感セリ/(ロ)軍艦青葉ノ艦内視察ヲ熱望セル如ク見受ケタリ/(ハ)從來接觸セシ在日本大使館付武官等ニ比シ應揚ナル態度ヲ缺キ見學中「コセコセ」スル風ヲ認メタリ 以上 - ^ 賑ひの軍港風景 英米蘭・十八隻の水兵四千 未曾有の"海の豪華"[40] 蘭印艦隊五隻に後から入港した米國アジア艦隊並に碇泊中の英國軍艦を加へて新嘉坡港碇泊の英、米、蘭三國軍艦は十八隻に及ぶにぎやかさで、市内到るところ三國海軍水兵約四千で軍港風景を展開し、それぞれのスポーツ界も大にぎはひであるが三國軍艦が、かく多籔シンガポールに集まつたことは曾てないことである、ヤーネル米アジア艦隊司令長官は昨日はセレタ空軍根據地を訪問したが、前日十六日夜は總督官邸に於ける總督主催晩餐會に、ヘルフリツチ蘭印艦隊司令長官並に當地英國海軍司令官クラーク副少将とともに招待を受けた、三國司令官が顔を合せたのも未曾有のことである、なほ蘭印艦隊は昨十七日正午歸還の途についた〔 蘭司令官語る〕スマトラ、ジャワ二巡洋艦以下五隻を率ひて當地を訪問した蘭印艦隊司令官ヘルフリツチ氏は昨十七日正午歸還を前に旗艦スマトラ號上において記者團に對し左の如く語つた(以下略)(記事おわり)
- ^ オランダ王室のウィルヘルミナ女王も、イギリス駆逐艦ヘレワード (HMS Hereward, H9) に乗艦してイギリスに脱出、オランダ亡命政府を樹立した(第二次世界大戦時のオランダ女王)。
- ^ カリブ海の西インド諸島小アンティル諸島には、オランダ自治領があった。
- ^ ABDA艦隊の主力を成していたオランダ軽巡デ・ロイテル (Hr. Ms. De Ruyter) と軽巡ジャワ (Hr. Ms. Java) は、日本海軍と交戦して撃沈された[4]。
脚注
[編集]- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1927.01.04、p.3、2023年7月16日閲覧
- ^ a b #スマトラ長崎入港 p.3〔 蘭艦「スマトラ」要目 一.排水量 七〇五〇屯/二.乗員 四八〇/三.武装 五.九吋砲十門 其ノ他、魚雷ナシ、機雷一二。/四.速力三〇節 油専燃/五.完成(?)一九二〇年一二月二九日 二月三日横浜入港 約一週間間碇泊ノ予定 〕
- ^ a b c d Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1927.01.14、p.3、2023年7月16日閲覧
- ^ a b c d e f g イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 151.
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nichibei Shinbun, 1926.12.16、p.2、2023年7月16日閲覧
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nichibei Shinbun, 1927.01.09、p.2、2023年7月16日閲覧 〔 和蘭巡洋艦乗員十六名 當市で脱艦和蘭總領事が捜索願 昨年十二月下旬入港し二週間以上碇泊して本月四日サイベリア丸と同日に南洋蘭領スマトラに向かつたオランダ巡洋艦スマトラ號の乗員十六名は當地で脱艦し今尚行衛不明なので(以下略) 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1927.01.19、p.2、2023年7月16日閲覧 〔 オランダ巡洋艦抜錨 横濱に向けて 〕
- ^ #公文備考艦船4、33巻 p.12(スマトラ行動報告)(発、宛略)〔 和蘭巡洋艦スマトラ號ハ大西洋沿岸巴奈馬運河桑港經由一月十四日ホノルル入港十八日午后横濱向ケ出港セリ。〕
- ^ 「叙勲裁可書・昭和二年・叙勲巻六・外国人/蘭国海軍大佐ヨンクヘール、シヨーレル叙勲ノ件 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.A10113033600
- ^ 「昭和2年1月10日(月)海軍公報 第7号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C12070307700 〔 ○和蘭軍艦「スマトラ」號行動豫定 一月中旬(期日未定)寄港地 横濱、神戸 〕、「昭和2年1月26日(水)海軍公報 第21号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C12070307800 〔 ○和蘭軍艦「スマトラ」號行動豫定(一月十日本欄参照)二月三日 横濱入港 約一週間碇泊ノ豫定 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1927.01.26、p.1、2023年7月16日閲覧 〔 和蘭巡洋艦スマトラ號 御大喪儀に参列と決定 二月二日ホノルルより横濱に入港 〕
- ^ 海軍制度沿革、第1巻 1937, p. 59原本76-77頁〔 ◎大喪儀當日艦船配備及儀禮等ニ關スル件 〕
- ^ #公文備考艦船4、33巻 p.15(昭和2年2月3日)〔 横濱税関長 海軍大臣 和蘭軍艦「スマトラ」入港ス 〕
- ^ a b 「昭和2年2月5日(土)海軍公報 第30号 p.18」 アジア歴史資料センター Ref.C12070307900 〔 ○和蘭軍艦「スマトラ」號行動豫定(一月二十六日本柵参照) 横濱二月三日入港 二月十日出港 神戸同十二日 同十六日 同(内海ヲ經テ上海ニ向フ) 〕
- ^ 大正天皇御大喪写真帖 1927, pp. 36–40原本17-24頁(大正天皇御大喪儀)
- ^ 「昭和2年1月19日(水)海軍公報 第15号 pp.1-2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070307800 、「昭和2年2月9日(水)海軍公報 第31号 pp.22-24」 アジア歴史資料センター Ref.C12070307900 〔 ○艦船所在○二月九日午前十時調 〕
- ^ #外国艦船大葬儀 pp.3-4〔 昭和二年二月九日 横須賀 春日艦長太田質平 横須賀鎭守府司令長官岡田啓介殿 外國艦船ノ大喪儀當日儀禮施行ノ状況報告ノ件 大喪當日横濱在港和蘭軍艦「スマトラ」ノ行ヒタル儀禮ノ状況左記ノ通 右報告ス(以下略) 〕
- ^ 大正天皇大喪紀要 1927, p. 71(原本125頁)第五節 特殊外國代表者ノ参列
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1927.02.10、p.3、2023年7月16日閲覧 〔 和蘭巡洋艦ス號の乗組員を歡迎 横須賀軍港に招待す(東方通信)御大喪儀に列した和蘭巡洋艦スマトロ號艦長以下乗組員士官は昨日横須賀軍港に赴き海軍施設を見學した(記事おわり) 〕
- ^ #本艦観覧 pp.2-6(スマトラ乗組員、山城見学報告)
- ^ #公文備考艦船4、33巻 p.17(昭和2年2月10日)〔 横濱税関長 海軍大臣 和蘭軍艦「スマトラ」出港ス 〕
- ^ #公文備考艦船4、33巻 p.18(昭和2年2月11日)〔 神戸税関長 海軍大臣 蘭國「スマトラ」入港ス 〕
- ^ 「昭和2年2月16日(水)海軍公報 第36号 pp.49-50」 アジア歴史資料センター Ref.C12070307900 〔 ○艦船所在○二月十六日午前十時調 〕
- ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日) p.4〔 衣笠|一等巡洋艦|(艦諸元略)|神戸川崎造船所|大正13-1-23|大正15-10-24|昭和2-9-30|(装備略) 〕
- ^ #公文備考艦船4、33巻 p.21(昭和2年2月16日)〔 兵庫縣知事 海軍大臣 和蘭軍艦「スマトラ」上海ニ向ケ出帆ス 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1927.03.16、p.7、2023年7月16日閲覧 〔 御大喪に使した蘭艦スマトラ號 要塞地帶を撮影し去る 水先案内の制止もきかず甲板に活動寫眞器をすゑて /相手が軍艦で何とも出来ない外務省當局談 〕
- ^ #要塞地帯撮影 pp.4-9〔 和蘭軍艦乗組員下関要塞地帯撮影ニ関スル要旨 和蘭軍艦スマトラ號 〕
- ^ a b #要塞地帯撮影 pp.37-39〔 和蘭軍艦「スマトラ」號長崎入港ニ関スル件 〕
- ^ #公文備考艦船4、33巻 p.28(昭和2年5月14日)〔 長崎水上警察署長兵庫縣知事 海軍大臣 和蘭軍艦「スマトラ」上海ヨリ本日午後九時半入港ス本月十八日「ヴァタビヤ」ニ向ケ出港ノ予定 〕
- ^ a b 海軍省年報、昭和2年 1933, p. 48第四 外國艦船本邦出入一覧 昭和二年度
- ^ 「昭和2年5月14日(土)海軍公報 第108号 pp.5-6」 アジア歴史資料センター Ref.C12070308800 〔 ○艦船所在○五月十四日午前十時調 〕
- ^ a b #スマトラ長崎入港 pp.1-2〔 和蘭軍艦「スマトラ」號ニ関ス件(憲兵司令官→海軍大臣岡田啓介) 蘭東洋艦隊 巡洋艦「スマトラ」號 右五月十四日上海ヨリ長崎港ニ入港中ノ處五月十九日午後四時蘭領印度ニ向ケ出港シタル件既報ノ通リナルカ本艦長崎港碇泊中艦体其他修理ノ有無ニ付キ再調スルニ艦体ノ修理ヲ為サルハ勿論艦内一部ノ修理等ヲ為シタル事實アルヲ認メス 右報告ス 報告、通牒先 陸、海軍大臣、参謀總長 〕
- ^ #公文備考艦船4、33巻 pp.39-44
- ^ #要塞地帯撮影 pp.29-35〔 和蘭軍艦「スマトラ」號長崎港碇泊中ノ状況ニ関スル件報告 〕
- ^ 「大正15年9月28日(火)海軍公報第4161号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C12070304600 〔 ○軍艦進水 三菱造船株式會社長崎造船所ニ於テ建造ノ軍艦青葉本月二十五日午前十時十五分進水セリ 〕
- ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日) p.4(青葉要目)
- ^ #本艦観覧 pp.7-8(外人市立工場見學状況報告ノ件)
- ^ #公文備考艦船4、33巻 pp.38-39(スマトラ長崎滞在中報告)
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nan’yō Nichinichi Shinbun, 1931.05.26、p.3、2023年7月16日閲覧 〔 蘭艦スマトラ號 ビリトン沖の未詳暗礁に挫礁し十七日漸く引御さる 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippō, 1936.11.18、p.3、2023年7月16日閲覧
- ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, pp. 50–51ジャン・バール級/クールベ
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 14–15イギリス海軍、D級軽巡洋艦