スーラジ・マル
スーラジ・マル Suraj Mal | |
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バラトプル王 | |
スーラジ・マル | |
在位 | 1755年 - 1763年 |
戴冠式 | 1755年5月22日 |
別号 | マハーラージャ |
全名 | スージャンジー・シング |
出生 |
1707年2月 |
死去 |
1763年12月25日 デリー近郊 |
子女 |
ジャワーハル・シング ナハル・シング ラタン・シング ニハール・シング ランジート・シング |
父親 | ループ・シング |
母親 | デーヴキー |
宗教 | ヒンドゥー教 |
スーラジ・マル(ヒンディー語:सूरज मल, Suraj Mal, 1707年2月 - 1763年12月25日)は、北インド、バラトプル王国の君主(在位:1755年 - 1763年)。スーラジュ・マルとも呼ばれる
彼は偉大なジャート族の指導者であり、その治世にバラトプル王国の領土は拡大し、その威信を北インド一帯に轟かせた。その支配は現ハリヤーナー州南部にいたる広大な地域を及んでいた。歴史家ビパン・チャンドラは「彼は敏腕な統治者でかつ戦士であり、賢明な政治家であった」と評している[1]。
生涯
[編集]前半生・王位継承
[編集]1707年2月、スーラジ・マルはのちのバラトプル王国の君主バダン・シングの弟ループ・シングの息子として生まれた[2][3]。その家系はジャート族の指導者であり、17世紀末から18世紀初頭にかけて、ムガル帝国にたびたび反乱を起こしていた。
スーラジ・マルが生まれて間もなく、同年3月3日にムガル帝国の皇帝アウラングゼーブがその長い生涯を終え、帝国は徐々に崩壊の運命をたどった。
1733年、スーラジ・マルは26 歳の時、ラージャスターンのバラトプルを占領し、ここを自身の拠点とした[2]。とはいえ、叔父のバダン・シングを支え続け、1755年にはその地位を継承した[2]。
勢力拡大
[編集]この時代、ムガル帝国は衰退期を迎え、マラーター同盟が勢力を広げていた。そうしたなか、スーラジ・マルはジャート勢力をまとめ上げ、最盛期には北はデリー州、西はアーグラ州、東はガンジス川、西はチャンバル川に至る版図を支配下に置いた[1]。その中にはマトゥラー、アーグラ、アリーガル、メーラトなど重要な都市も含まれていた。
スーラジ・マルと同時代の人間は彼に関して次のように語っている[1]。
「 | 」 |
第三次パーニーパットの戦いと死
[編集]1760年8月、スーラジ・マルはマラーター同盟軍ともにデリーへ入城し、アフガン勢力ドゥッラーニー朝を迎え撃とうとした。その際、軍総司令官のサダーシヴ・ラーオ・バーウにデリーを拠点にアフガン軍にゲリラ戦で対抗するように進言した。しかし、サダーシヴ・ラーオはこれを卑怯な戦い方だとして拒否したため、スーラジ・マルはデリーを去った。
1761年1月14日、マラーター同盟軍はアフガン軍にパーニーパットで敗れ、おびただしい数の死者を出した(第三次パーニーパットの戦い)。スーラジ・マルの予想通りであった。
その後、ドゥッラーニー朝は北インドから撤退したものの、スーラジ・マルはその代官として残されたローヒラー族のナジーブ・ウッダウラと対立した。ナジーブ・ウッダウラはパーニーパットの戦いのち、ムガル帝国の実権を握った人物であった。
1763年12月25日、スーラジ・マルはナジーブ・ウッダウラとデリー近郊で戦った際、伏兵の攻撃に遭って死亡した[2]。死後、息子のジャワーハル・シングが王位を継承したが、王国はしだいに分裂していった[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。