セオドア・アール・バトラー
セオドア・アール・バトラー Theodore Earl Butler | |
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生誕 |
1861年10月12日 アメリカ合衆国,コロンバス |
死没 |
1936年5月2日 フランス,ジヴェルニー |
運動・動向 | 印象派 |
セオドア・アール・バトラー(Theodore Earl Butler、1861年10月12日 - 1936年5月2日)はアメリカ合衆国の印象派の画家である。生涯の大部分をフランスで活動した。クロード・モネの義理の娘で、モネの絵に何度も描かれたスザンヌ・オシュデと結婚した。スザンヌの没後はその妹と結婚した。
略歴
[編集]オハイオ州のコロンバスに生まれた。父親のコートランド・フィリップ・リビングストン・バトラー(Courtland Philip Livingston Butler)は名家「リビングストン家」の一族の企業家である。バトラーは美術をニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでウィリアム・メリット・チェイスに学び、チェイスから印象派の絵画を学んだ。1885年にパリに渡り、グランド・ショミエール芸術学校、アカデミー・コラロッシ、アカデミー・ジュリアンで学んだ。一緒に学んだ学生にはピエール・ボナールやエドゥアール・ヴュイヤールがいる。
教師のカロリュス=デュランを通じてクロード・モネと親しくなり、モネの住むジヴェルニーにあるホテルに滞在し、モネを頻繁に訪ねた。当時ジヴェルニーには、多くのアメリカ人の画家が滞在し、活動していた。フレデリック・カール・フリージキーやフィリップ・レスリー・ヘール、ウィラード・メトカーフ、リラ・キャボット・ペリー、セオドア・ロビンソン、ガイ・ローズといった画家がいて、バトラーはローズと親しくなった。
1992年にモネの2番目の妻、アリス・オシュデの連れ子の娘、スザンヌと結婚した。スザンヌとの間に2人の子供ができた。1899年にスザンヌが亡くなった後、スザンヌの姉のマルトと結婚した。1913年にバトラーは家族と、ニューヨークに移り、アメリカで最初の国際美術展覧会、アーモリーショーにも参加した。1916年にジョン・スローン、ジョン・マリン、マルセル・デュシャン、ウィリアム・グラッケンズらとともに、独立芸術家協会(Society of Independent Artists)の創立メンバーになった。第一次世界大戦が始まりフランスに戻れなくなったが1921年に家族とジヴェルニーに戻った。1936年にジヴェルニーで没した。
印象派、モネの影響が見られる画風から、より前衛的なスタイルの作品を制作した。
作品
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「積み藁」(c.1900)
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「セーヌ川に浮かぶボート」(1902)
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「雪の学校」(1903)
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「橋と花火」
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「モネ家の庭の娘リリ・バトラー」(1911)
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Lower Manhattan (1915)
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Flags (1918)
参考文献
[編集]- Karin-Sagner Düchting: Claude Monet; een feest voor het oog. Taschen, Keulen, 2004. ISBN 3-8228-3192-1
- Mary Sayre Haverstock, e.a.: Artists in Ohio, 1787-1900: a biographical dictionary, Kent State University Press, Ohio. 2000. ISBN 9780873386166