セルゲイ・エリセーエフ
人物情報 | |
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生誕 |
1889年1月13日 ロシアサンクトペテルブルク→ フランス |
死没 | 1975年4月13日 (86歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
子供 | ニキータ・エリセーエフ(中東学) |
学問 | |
研究分野 | 東洋学・言語学 |
研究機関 | ハーバード大学・ソルボンヌ大学 |
セルゲイ・グリゴリエヴィッチ・エリセーエフ(ロシア語: Сергей Григорьевич Елисеев; 英語: Sergei Grigorievich Eliseev[注釈 1]、1889年1月13日 - 1975年4月13日)は、ロシアの日本学者、東洋学者である。ハーバード大学教授、ハーバード燕京研究所( Harvard-Yenching Institute)所長などを歴任。フランス国籍。セルジュ・エリセーエフ、英利世夫とも称した。
生涯
[編集]1889年、サンクトペテルブルクで豪商の二男として生まれる。生家のエリセーエフ家は、ロシア有数の食料品店業者「エリセーエフ商会」などを営む大富豪で、現在でもモスクワ、サンクトペテルブルクに豪奢な店舗が残っている[注釈 2]。11歳のときに、パリ万国博覧会を見学し、東洋に対する興味を持つようになる。また、日露戦争での日本の勝利を受けて日本研究を決意[2][3]。1907年にエリセーエフは、ベルリン大学に留学し、日本語を学び始め、ここで日本の言語学者・新村出に出会ったのを機に日本留学を志す。
1908年(明治41年)東京帝国大学国文科に入学する。エリセーエフの東京帝大入学に当たっては、新村のほか、芳賀矢一、上田万年など東京帝大の教授陣が尽力している。1912年(明治45年)東京帝大国文科を4席で卒業する。卒論のテーマは松尾芭蕉[3]。国文科を正式に卒業した最初の外国人となった[4]。卒業式には明治天皇が臨席し、最前列で天皇を迎えるという栄誉を得た。
この間、本郷弥生町に8部屋庭付きの家を借り、女中3人、家庭教師3人を雇って、終日日本語を特訓した[3]。小宮豊隆らとも親交を結び、夏目漱石の「木曜会」に出入りするようになって、漱石の勧めで「朝日文芸欄」に評論を発表している[5]。また漱石からは、署名とともに「五月雨や 股立ち(ももだち)高く 来る(きたる)人」という句の記された『三四郎』を贈られ、終生、家宝にして愛読したという。また、永井荷風らを招いて自宅で文学サロンも開いた[3]。
帰国後はペトログラード大学(現:サンクトペテルブルク大学)で日本語・日本文学の教員となったが、ロシア革命が勃発し、革命を支持し支援したものの、ブルジョワであったエリセーエフは投獄され、獄中で『それから』を読んでいる。ソビエト政権が成立するに至って1920年一家を伴いフィンランドに亡命する。この間の苦難に満ちた生活については、日本語で『赤露の人質日記』に詳述され、大阪朝日新聞で連載された[3]。
1921年フランス・パリに移り、現地で芦田均の助力を得る[1]。ソルボンヌ大学で教鞭を執るようになり、1931年フランス国籍を取得する。フランス時代には、日本専門誌『日本と極東』を発案し、ギメ美術館の研究助手を務めながら、駐仏日本大使館の通訳としても働いた[3]。旧友谷崎潤一郎、志賀直哉の作品を翻訳し、日本文学を中心に西欧に日本紹介を盛んに行う[注釈 3]。戦後もヨーロッパに研究留学した日本・東洋学者とも交流が続いた[6]。
1932年アメリカに渡り、ハーバード大学で日本語、日本史、日本文学の講座を担当する。ハーバードにおける門下生にはエドウィン・ライシャワー[注釈 4]やドナルド・キーンがいる[注釈 5][7]。第二次大戦時は米軍の対日戦略の協力者となる[2]。1941年から5年間、米国海軍語学校の日本語特訓コースで教えた[8]。一部ロシアメディアは、太平洋戦争において文化財の多い京都への空襲を避けるよう米軍にセルゲイが提言したと主張している[1]。
1956年にフランスに戻ったが、フランスの東洋学界ではすでに忘れられた存在であり、寂しい晩年を過ごし、パリで没した[2]。
家族・親族
[編集]- 父・グレゴリー(ru:Елисеев, Григорий Григорьевич、1864—1949) - ヤロスラヴリ州ヤロスラヴリ村の農民ピョートル(1776—1825)を祖とする一族で、グレゴリーはその孫。サンクトペテルブルクで祖母(ピョートルの妻)が貿易商を始めて成功させ、父とおじたちが発展させて、銀行なども経営する大富豪となり、それらの事業を兄たちとともに引き継いだ。当時の最高多額納税者[3]。子孫によると一族は20世紀初期にフランス大統領エミール・ルーベのロシア訪問の全費用を負担したことで貴族の称号を得たとされる(どこから何の称号かなど詳細不明)[2][9]。
- 妻・ベラ - セルゲイの妹の元家庭教師[2]
- 長男:ニキータ・エリセーエフ(Nikita Elisséeff 1915–1997) - 中東学者
- 次男:ヴァディム(ワジム)・エリセーエフ(Vadime Elisséeff 1918–2002)、ヴァディム[10]は外交官・日本学者として、父の後を継ぐ形で日本学者として研究活動した。ギメ美術館に次ぐフランス第二の東洋美術館として知られるチェルヌスキ美術館(fr:Musée Cernuschi)[11]の元館長。妻で中国史研究者のダニエル・エリセーエフ(Danielle Elisséeff 1938–)との共著で、フランス語での日本通史 "La civilisation japonaise" を著した(ISBN 978-2700306613、下記は訳書)。
受賞・栄典
[編集]- 1973年: 国際交流基金賞・奨励賞
文献
[編集]- 『赤露の人質日記』 中公文庫、1976年(倉田保雄解説)- 自身が日本語で記した著書
伝記
[編集]- 倉田保雄『エリセーエフの生涯 日本学の始祖』 中央公論社<中公新書>、1977年
- 改訂版『夏目漱石とジャパノロジー伝説 「日本学の父」は門下のロシア人・エリセーエフ』 近代文芸社、2007年。ISBN 978-4773374612
- 川口久雄『敦煌よりの風6 敦煌に行き交う人々』 明治書院、2001年
- 第2篇「セルゲー・エリセーエフと日本」、第3篇「マグニチュードの日本学の人たち」
親族の訳書
[編集]- ヴァディム・エリセーエフ/ダニエル・エリセーエフ『日本文明』 桐村泰次訳、論創社、2013年。ISBN 978-4846012199
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ フランス亡命後はフランス語読みにもとづいた「セルジュ・エリセーエフ」(フランス語: Serge Elisseeff')。また、日本語では「英利世夫」と自称していた。
- ^ モスクワの店舗は、2021年をもって閉店[1]。
- ^ 永井荷風も『断腸亭日乗』で、著作を手にして、興味深い半生だと述べた。
- ^ 倉田保雄『夏目漱石とジャパノロジー伝説』は、ライシャワーに冠されている「日本学の父」という称号をエリセーエフに帰そうとする試みである。
- ^ ただしキーンはエリセーエフの講義を無味乾燥と評し、「私はエリセーエフにも多くを負っていて、それは自分がしてはならないことの手本を彼が示してくれたからだった」と述べている[7]。
出典
[編集]- ^ a b c “コロナ禍の観光客減が直撃…豪華な内装の高級食料品店が閉業 特権階級に愛されたロシアの「歴史の証人」”. 東京新聞 TOKYO Web (2021年5月17日). 2021年7月19日閲覧。
- ^ a b c d e セルゲイ・エリセーエフフランスニュースダイジェスト1000号
- ^ a b c d e f g ペリー来航以来の日米文化交流とJapan2019 6.夏目漱石とも交流したロシアの大富豪 - セルジュ・エリセーエフ吾郷俊樹、ファイナンス55巻7号、財務省、2019年10月
- ^ 『本郷菊富士ホテル』近藤冨枝、中公文庫、2012、p46
- ^ 遠藤祐 漱石主宰の「朝日文芸欄」(資料) 岩手大学学芸学部研究年報 22(2) 1964年3月 岩手大学学芸学部
- ^ 川口久雄『敦煌よりの風6 敦煌に行き交う人々』(明治書院、2001年)に回想交流を収録。
- ^ a b ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』p.108(中央公論新社、2007年)
- ^ エリセーエフ / ライシャワー / ハーバード燕京研究所『大学生のための日本語入門』青葉古書店
- ^ ロシア版ウィキペディアでは貴族は同名の別の一族で立項
- ^ 秋山光和『出会いのコラージュ』(講談社、1994年)に、交流回想を収録。
- ^ チェルヌスキ美術館メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド
関連項目
[編集]- エドウィン・O・ライシャワー
- アーサー・ウェイリー
- ハーバード・アジア研究誌 Harvard Journal of Asiatic Studies
- ハーバード・イェンチン研究所(ハーバード燕京研究所)Harvard-Yenching Institute
- ジョージ・サンソム
- ギメ東洋美術館
外部リンク
[編集]- 『エリセーエフ』 - コトバンク
- 『エリセーエフ セルゲイ』 - コトバンク
- エリセーエフとネフスキイ桧山真一、立命館経済学(第46巻 ・第6号)
- ハーバード大学の日本研究ボライソ ハロルド、世界の日本研究、1991-05-21