ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ
ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ | |
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在位 1997年2月17日 - 現在 | |
先代 |
アムハ・セラシエ1世 (エチオピア亡命皇帝) |
法定推定相続人 | ミカエル・アムデ・イエソース王子(ハラール公) |
出生 |
1953年8月17日(71歳) エチオピア帝国 アディスアベバ |
王朝 | ソロモン朝 |
父親 | エチオピア亡命皇帝アムハ・セラシエ1世 |
母親 | メドフェリアッシュワーク・アベベ王女 |
配偶者 | ヌヌ・ゲタネ王女(離婚) |
子女 リデタ王女 | |
信仰 | エチオピア正教会 |
ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ(ゲエズ語: ዘርአ ያዕቆብ አምሃ ሥላሴ、英語: Zera Yacob Amha Selassie([ˈzɪərə jæˈkoʊb]、1953年8月17日 - )は、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の孫であり、皇太子アスファ・ウォッセン(アムハ・セラシエ1世)の息子である。
生涯
[編集]ゼラ・ヤコブはイギリスに留学し、イートン・カレッジ、オックスフォード大学エクセター・カレッジ、サンドハースト王立陸軍士官学校を卒業した[1]。イギリス留学中の1974年初頭、父のアスファ・ウォッセン皇太子が脳卒中となり、その余命が短いことが予期されたことから、祖父の皇帝ハイレ・セラシエ1世から皇太子代行・皇位継承者に指名された[2]。同年中にエチオピア革命によりエチオピアの帝政が崩壊した。
ゼラ・ヤコブは、1970年代にオックスフォード大学を卒業した後、アメリカで銀行員として短期間働いた後、ロンドンに移り住んでヌヌ・ゲタネ王女と結婚したが、その後離婚した。ヌヌ王女との間には娘のリデタ王女が生まれた。ゼラ・ヤコブはイギリス・ロンドンのドッグス島の質素な住居に定住していた[1]。
1989年4月、父がロンドン在住のエチオピア人コミュニティからの推戴により「エチオピア亡命皇帝」に即位し、ゼラ・ヤコブはその相続人に指名された。
1992年、父のアムハ・セラシエが移住先のアメリカ合衆国バージニア州で健康診断を受けるのに伴いゼラ・ヤコブも一旦渡米したが、その時に父が脳卒中で倒れたため、そのまま2年間滞在した。1997年に父がアメリカで亡くなり、喪主を務めるためにビザを申請したが、以前に2年間滞在していたことを理由として申請が却下された。
1997年2月17日、エチオピア帝冠評議会からの推戴によりエチオピア帝室(ソロモン朝)の家長に就任した。現在はアディスアベバに住んでいる。2002年からエチオピア平和財団(EPF)の事務局長を務めている。
法定推測相続人は、ゼラ・ヤコブの叔父である初代ハラール公爵マコンネン・ハイレ・セラシエ王子の長男・第2代ハラール公パウルス・ウォッセン・セゲド王子が長年担っていたが2021年に薨去、次男のミカエル・アムデ・イエソース王子が第3代ハラール公となり、帝位相続人の地位を継承した。ゼラ・ヤコブの従兄にあたる。
栄誉
[編集]ゼラ・ヤコブは、次の栄誉を受けている。
- 聖ラザロ騎士団ナイト・グランド・クロス(フランス王室)[3]
- 聖アンデレ騎士団 ナイト・グランド・コルドン(ロシア王室)[4]
- ロイヤル・オブ・ドラム勲章(ルワンダ) ナイト・グランド・カラー(ルワンダ王室)[5]
- グルジア鷲勲章
脚注
[編集]- ^ a b Cusick, James; Carlin, John (1997年). “Lost: one Lion Emperor, last seen in the Isle of Dogs”. Independent on Sunday
- ^ Charles Mohr (15 April 1974). “Haile Selassie Designates a Grandson as Eventual Successor”. The New York Times. 25 August 2020閲覧。
- ^ “Connaissance des Religions > Sommaires - 1985-1994”. Cdr.religion.info. 21 March 2016閲覧。
- ^ Imperial House
- ^ Guidance for Honours in the De Jure Kingdom of Rwanda
外部リンク
[編集]ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ
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請求称号 | ||
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先代 アムハ・セラシエ1世 |
— 名目上 — エチオピア皇帝 1997年2月17日 - 現在 継承失敗の理由 1975年の帝政廃止 |
次代 ミカエル・アムデ・イエソース・マコンネン |