ソンジン・ワンチュク
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ソンジン・ワンチュク | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1885年 |
死去: |
1948年(民国37年)2月19日 内モンゴル自治政府ウランホト市 |
出身地: | 清内モンゴルシリンゴル盟(錫林郭勒盟)ホチト(浩斉特)左翼旗 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 松津旺楚克 |
簡体字: | 松津旺楚克 |
拼音: | Sōngjīn Wàngchŭkè |
ラテン字: | Sung-chin Wang-ch'u-ko |
和名表記: | ソンジン・ワンチュク |
発音転記: | ソンジン ワンチューコー |
ソンジン・ワンチュクは、モンゴル(内蒙古)の王族・政治家。中華民国、蒙古聯合自治政府、内モンゴル自治政府等で活動した。松王とも呼ばれる。
事跡
[編集]1916年(民国5年)、ホチト左旗の扎薩克(執政官の意)となる。また、同旗の多羅郡王に封じられた。1936年(民国25年)、察哈爾省政府委員に任ぜられた。
1937年(民国26年)10月、蒙古聯盟自治政府の成立とともに、ソンジン・ワンチュクはこれに参加して参議会参議に任命された。翌年3月、シリンゴル盟副盟長となる。1939年(民国28年)9月、蒙古聯合自治政府の成立とともに、民政部部長に就任した。1941年(民国30年)6月、民政部が廃止されたため、新設された興蒙委員会の委員長に転じた。
蒙古自治邦(蒙古聯合自治政府を改組したもの)が崩壊した後の1946年(民国35年)、ウランフ(烏蘭夫)率いる内モンゴル自治区運動聯合会により、ソンジン・ワンチュクはシリンゴル盟盟長に任命された[1]。翌1947年(民国36年)5月、内モンゴル自治政府が成立すると共にソンジン・ワンチュクは同政府参事庁庁長に任命されている[2]。
1948年(民国37年)2月19日、ウランホト市にて在職のまま病没。享年64[3]。
注
[編集]- ^ 潮洛濛「憶烏蘭夫二事」開国元勲網、2011年8月10日
- ^ 「民国36年 (公元1947年)」内蒙古区情網(内モンゴル自治区地方志編纂委員会弁公室ホームページ)、2011年4月14日
- ^ 「民国37年 (公元1948年)」内蒙古区情網同上
参考文献
[編集]- 潮洛濛「憶烏蘭夫二事」開国元勲網、2011年8月10日
- 「民国36年 (公元1947年)」内蒙古区情網(内モンゴル自治区地方志編纂委員会弁公室ホームページ)、2011年4月14日
- 「民国37年 (公元1948年)」内蒙古区情網同上
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。ISBN 7-101-01320-1。
蒙古聯合自治政府(蒙疆聯合自治政府、蒙古自治邦)
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