コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

タイラー・リー・バンバークレオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タイ・バンバークレオ
Ty Van Burkleo
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州オークランド
生年月日 (1962-10-07) 1962年10月7日(62歳)
身長
体重
6' 5" =約195.6 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1981年 アマチュアFA
初出場 NPB / 1988年4月9日
MLB / 1993年7月28日
最終出場 NPB / 1991年9月1日
MLB / 1994年7月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

タイラー・リー・バンバークレオTyler Lee Van Burkleo, 1962年10月7日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド出身の元プロ野球選手外野手)、野球指導者。左投左打。

MLBでの登録名は、タイ・バンバークレオ(Ty Van Burkleo)。

経歴

[編集]

プロ入りとブルワーズ傘下時代

[編集]

1981年ミルウォーキー・ブルワーズと契約してプロ入り。

1984年6月27日にメジャー昇格のないまま、契約解除。

エンゼルス傘下時代

[編集]

1984年8月4日にカリフォルニア・エンゼルスと契約した。

1987年6月2日にエンゼルスとの契約を解除となった。

西武時代

[編集]

1987年シーズン途中に西武ライオンズに入団した。長身に加え、甘いマスクで、家族共に日本入りした姿が野球ファンの間で話題になった。登録名は最初はバンバークレオであったが、すぐにバークレオに変更されている(背ネームはVAN BURKLEOのまま)。

西武入団1年目は外国人枠の関係もあり二軍で過ごした。

1988年は認められ、一軍の5番に定着して打ちまくり、満塁本塁打4本を含むチームトップタイ38本塁打を放ち、チームのリーグ優勝・日本一に貢献(なお、2年目までの推定年俸は当時のレートで700万円と格安であった)。3番・秋山幸二、4番・清原和博の後を打ち、3人はAKB砲といわれた[1]。この3人で100本以上の本塁打を打ち、他球団から恐れられた。中日ドラゴンズとの日本シリーズ第5戦では初回に小野和幸から2点適時打を放っている。

1989年以降は変化球攻めに苦しみ低打率となり、監督の森祇晶は新加入したスイッチヒッターのオレステス・デストラーデを起用するようになる。桁違いの飛距離を誇るにもかかわらず、当時は外国人は一軍登録2人制のため(エース級の郭泰源もいた)再び二軍生活を余儀なくされた。ただし1990年夏、郭が右肘痛で抹消されると一軍に昇格。AKBD砲の一角として9本の本塁打を記録、イースタン・リーグでは本塁打王を獲得するなど活躍したが、この年限りで西武を退団した。

当初西武での応援歌の原曲は、名前にちなんだ「歌えバンバン」だった。しかし、1990年に秋山幸二清原和博以外の全員の応援歌が作り直され、バークレオにも新曲が作られたが、こちらはあまり歌われる機会のないままに終わっている(後にブライアン・ラービーに流用されたが、彼もまた1年通しての活躍はできなかった。その後は関西地区限定で髙木大成に流用された)。

広島時代

[編集]

1991年には広島東洋カープへ移籍した。

小早川毅彦とポジションを争い、開幕戦こそ「5番・一塁手」で先発出場を勝ち取るも故障もあって低迷した。チームはリーグ優勝を果たしたが、自身はその輪に入れず1年で退団した。

エンゼルス時代

[編集]

1992年にエンゼルスと契約した。

1993年7月28日のオークランド・アスレチックス戦(アナハイム・スタジアム)で「7番・一塁手」としてメジャーデビューを果たす。8月3日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で、8回裏にスタン・ベリンダ英語版からメジャー初安打となる二塁打を放った。8月16日のデトロイト・タイガース戦では、メジャー唯一の本塁打を同じくNPB経験者であるビル・ガリクソンから放っている。

ロッキーズ時代

[編集]

1994年コロラド・ロッキーズでプレーした。

エンゼルス傘下復帰

[編集]

1996年にエンゼルス傘下(当時)のA+級レイクエルシノア・ストーム英語版でプレーしたのを最後に引退。

引退後

[編集]

引退後、1997年からエンゼルスやアリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のマイナーで打撃コーチなどを務めた。2007年から2008年までオークランド・アスレチックスの打撃コーチを務め、2009年からはシアトル・マリナーズのベンチコーチに就任した。しかし、2010年8月9日にチームの成績不振のため、監督のドン・ワカマツと共に解任された。

2012年ヒューストン・アストロズ傘下のマイナーチームにて打撃コーチに就任したが、8月19日に解任されたマイク・バーネット英語版に代わる暫定の後任コーチとしてアストロズの打撃コーチをシーズン終了まで務めた。

2013年からはクリーブランド・インディアンスの打撃コーチに就任し、2021年まで務めた[2]

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1988 西武 118 453 366 67 98 10 2 38 226 90 3 4 0 1 82 3 4 120 4 .268 .406 .617 1.024
1989 37 135 119 14 25 4 1 6 49 11 0 1 0 0 16 0 0 35 1 .210 .304 .412 .715
1990 41 129 112 22 22 3 0 9 52 22 2 0 0 0 14 0 3 34 3 .196 .302 .464 .767
1991 広島 29 73 59 2 12 2 0 2 20 5 0 0 0 0 12 0 2 22 3 .203 .356 .339 .695
1993 CAL 12 39 33 2 5 3 0 1 11 1 1 0 0 0 6 0 0 9 0 .152 .282 .333 .615
1994 COL 2 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
NPB:4年 225 790 656 105 157 19 3 55 347 128 5 5 0 1 124 3 9 211 11 .239 .367 .529 .896
MLB:2年 14 44 38 2 5 3 0 1 11 1 1 0 0 0 6 0 0 10 0 .132 .250 .289 .539

記録

[編集]
NPB

背番号

[編集]
  • 29(1987年 - 1990年、2013年 - 2021年)
  • 5(1991年)
  • 46(1993年)
  • 27(1994年)
  • 39(2007年 - 2008年)
  • 44(2009年 - 2010年)
  • 45(2012年)

脚注

[編集]
  1. ^ 君は“AKB”砲を知っているか? | 野球コラム」『週刊ベースボールONLINE』2017年7月22日。2024年5月19日閲覧
  2. ^ Mandy Bell「Van Burkleo out as Cleveland's hitting coach」『MLB.com』(英語)、2021年10月6日。2022年2月13日閲覧

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]