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ダシュマン (カルルク部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ダシュマン・アカモンゴル語: Dašman aqa、? - 1317年)は、モンゴル帝国に仕えたムスリムの一人。『元史』などの漢文史料では答失蛮(dáshīmán)、『集史』などのペルシア語史料ではداشمن اقا(dāshman āqā)と記される。

『元史』には立伝されていないが『金華黄先生文集』巻24「宣徽使太保定国忠亮公神道碑」にその事蹟が記され、『新元史』には「宣徽使太保定国忠亮公神道碑」を元にした列伝が記されている。

概要

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生い立ち

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ダシュマンは中央アジアの遊牧部族であるカルルク部の出で、曽祖父のムハンマドはチンギス・カンの治世の6年目(1211年)に君主アルスラン・ハンとともにモンゴル帝国に降った人物であると伝えられる[1]。ムハンマドと妻である太帖尼氏の間に生まれたのがアリー(阿里)で、ムハンマドとアリーは後に「中山郡公」に追封されている[2]。アリーと忽委氏の間に生まれたハッジは質子(トルカク)としてモンゴル帝国に差し出され、後に第2代皇帝オゴデイバウルチとなった[1][3]。ハッジは厚遇されて西征にも従軍し、功績により河西(旧西夏国)の貴族の出である阿兀思吉氏(定国夫人と呼ばれる)を娶った[4]。第4代皇帝モンケの即位後、その弟のクビライが東アジア方面の司令官に抜擢されるとこれに仕え、雲南・大理遠征や南宋との戦いに従軍したが、病により亡くなった。その跡を継いだのが息子のダシュマンで、父同様にケシクテイに入ってバウルチとなり、クビライから重用された[3][5]

クビライの治世

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クビライの治世の中頃、尚書省を取り仕切るアフマド・ファナーカティーが権勢を得た際にはこれと対立し、アフマドが暗殺された後には玉環及び鈔2500を下賜された[6]

また、1287年(至元24年)にはナヤンの乱鎮圧戦に従軍し、功績により名族出身の脱脱倫氏を娶り、また良馬・白金を下賜された。その後は皇太子テムル率いるハンガイ方面駐屯軍に属し、西方のカイドゥに備えることになった。ダシュマンは主に兵站を担当し、晋王イェスン・テムルの軍団が食料不足になった時は、米数千石を供給した。任務を終えると朝廷に戻り白金100両・鈔1,500を下賜されたが、この時モンゴル高原駐屯軍の食糧は不十分であり供給量を増やすべきことを進言し、認められている[7]

再設置された尚書省の下でサンガが権勢を得た時、アフマドの時と同様にダシュマンはサンガと対立した。サンガが失脚した後、ダシュマンは邸宅を下賜されたが固辞し、代わりに玉環及び燕服与えられた[8]

テムルの治世

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1294年(至元31年)にクビライが亡くなった時、後継者を決めるために上都でクリルタイが開かれることになった。この時、ウズ・テムルらテムルとともにナヤンの乱鎮圧戦やカイドゥとの戦いに出陣した者たちがテムル即位のため尽力したことが知られており、記録にはないもののダシュマンもその一派としてテムル即位に尽力したものとみられる[9]。なお、ダシュマンが上都クリルタイに出席したことはペルシア語史料の『集史』テムル・カアン紀の記述からも確認される[10]

カイドゥが大元ウルスに侵攻した時、大元ウルス軍は急ぐあまり通常の倍の速度で、かつ昼夜兼行で行軍したために脱落する兵が続出してしまった。そこでダシュマンはこのまま強行軍を続け少数の兵となってしまっては何が起こるか分かりませんと諌め、進軍を止めて軍勢を再度集結させた。その数日後、カイドゥとの間で行われた戦闘で大元ウルス軍は大勝利を収めることに成功し、戦後の論功行賞でダシュマンは功績を認められ田300畝を下賜され、また司農丞の地位を授けられた[11][5]。この頃、テムルの後見人であったココジン・カトンが亡くなったことを切っ掛けに高官の代替わりが続いており、ダシュマンも前任のテゲ・コルチの辞職に伴って司農丞に任じられたものと見られる[5]

即位後のテムルは病気がちであったためダシュマンと息子のマイヌは数カ月衣服を代えず看病したこともあり、テムルの病状がやや持ち直した時には鈔25,000緡を下賜されている[12]

晩年

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テムルの死後、宮中クーデターを経てカイシャンが即位することになった時は、野馬川(サアリ・ケエル)に駐屯するカイシャンを迎える役目を務めた。カイシャンの弟でクーデターを主導したアユルバルワダの進言により、この頃ダシュマンは中書参知政事の地位を授けられ、また金帯・犀帯・七宝笠・珠帽・珠衣・金50両・田2,000畝を下賜された[13]

ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の即位後は、代々バウルチが長官を務める宣徽院に入り、僉宣徽院事に任じられた。その後、宣徽院副使・同知宣徽院事を経て宣徽院使・栄禄大夫に昇格となった[14][15]。なお、『類編歴学三場文選』冒頭には「皇慶二年(1313年)……博児赤答失蛮丞相」とあり、この頃ダシュマンは「バウルチ」かつ「丞相」としてブヤント・カアンに仕えていたことが確認される[16]

ブヤント・カアンに仕えていた頃、食事の間に典故について問われるも、従容として回答したことを称えられて三帯・海東白鶻を下賜された。しかし、それから間もなく病にかかって朝廷に出ることができなくなり、医師に余命は長くないと診断された。そこでダシュマンは諸子を集めて一族仲むつまじくし国に尽くすよう言い残し、語り終えるとそのまま亡くなった。ダシュマンは温厚且つ寛大な性格で、好んで施しを行っていたため、人々からは長者と称されていたという[17]

ダシュマンが亡くなったのは1317年(延祐4年)9月5日、60歳の時であり、その3日後に京城の東の樹辛荘に葬られた。翌年に定国公に追封され、また忠亮と諡された。1348年(至正8年)4月9日に岳柱の請願によって「宣徽使太保定国忠亮公神道碑」が作成された[18][19]。この碑文が作成された時点で、マイヌ・ヒンドゥ・ケレイという3人の息子と、6人の孫、8人の曽孫がいたと記されている[20]

子孫

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長男マイヌ

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『金華黄先生文集』巻24には「宣徽使太保定国忠亮公神道碑」に続けて「宣徽使太保定国忠亮公神道第二碑」という文章が収録されており、この文中でダシュマンの息子たちの事績について記録されている[21]。ダシュマンの長男のマイヌ(買奴)はブヤント・カアンの治世に父同様に司農少卿に任命された[22]1321年(至治元年)に河北河南道粛政廉訪使として決壊した黄河の補修に携わったとの記述があり、これは『元史』巻27英宗本紀で1320年(延祐7年)に「黄河が決壊し諸県が被害を受けた」という記録[23]と対応する[21]。その後、泰定帝イェスン・テムル・カアンの治世中に参議中書省事の地位に進んだとされ、『元史』巻30泰定帝本紀にもタシュ・テムル、ダウラト・シャーらとともに中書省の要人として名が挙げられている[24][21]。その後、河南江北等処行中書省平章政事、翰林学士承旨を歴任してウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の治世まで仕えていたとされるが、『元史』側には記録がない[21]

次男ヒンドゥ

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次男のヒンドゥ(忻都)は 1320年代末に雲南行省左丞の地位にあり、天暦の内乱に巻き込まれたとされる[25]。天暦年間の雲南における戦乱は『元史』に非常な簡略な記述しかないのに対して[26]、「宣徽使太保定国忠亮公神道第二碑」には詳細な経緯が記される。碑によると、上都側についた叛王禿堅・バイク(伯忽)らが雲南の中心地である中慶路を包囲し、雲南行省側ではテムル・ブカが城の北門を、ヒンドゥが東門を守った[25]。しかし防戦むなしく中慶路は陥落し、行省の印は奪われてヒンドゥも捕虜となった[25]

捕らえられたヒンドゥはなぜ逃げ出さなかったのかと問われたが、「命を奉じて行省の官を授けられたのに、どうして城を棄てて逃げ去ることができようか」と堂々と答えたという[25]。バイクはヒンドゥを殺そうとしたが禿堅は反対し、部下の忽哥児・ウマル(兀馬児)ら50人に命じて城内で虜囚とした[25]。しかしヒンドゥは以前からウマルらと面識があったため説得して味方に引き込み、脱出の計画を練った[25]。一方、城外では大都派のアラトナシリが大軍を率いて雲南に迫りつつあり、バイクらはウマルを派遣してこれを撃退しようとした[25]

既にヒンドゥと通じていたウマルは途中で裏切ってパイクとその兄弟を殺し、行省の印を奪還して雲南省を復活させた[25]。解放されたヒンドゥはパイクらの首級を皇帝の下に送るとともにアラトナシリを迎え入れ、アラトナシリはヒンドゥに自ら朝廷に報告するよう命じた[25]。報告を受けたジャヤガトゥ・カアン(文宗トク・テムル)は雲南における大都派の勝利に大きく貢献したことを賞し、厚く下賜するとともに上都留守兼本路都総管府ダルガチの地位を授けたという[25]

カルルク部ダシュマン家

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  • 中山郡公ムハンマド(Muḥammad >馬馬/mǎmǎ)
    • 中山郡公アリー(ʿAlī >阿里/ālǐ)
      • 定国公ハッジ(Hajji >哈只/hāzhǐ)
        • 宣徽使太保定国忠亮公ダシュマン(Dašman >答失蛮/dáshīmán,داشمن اقا/dāshman āqā)
        • 翰林学士承旨マイヌ(Mainu >買奴/mǎinú)
          • 䦨遺少監イラウダル(Ilaudar >亦老答而/yìlǎodāér)
        • 上都留守兼本路都総管府達魯花赤ヒンドゥ(Hindu >忻都/xīndōu)
          • 同知河東都転運塩使司事ハバシュ(Ḥabaš >哈八失/hābāshī)
        • 同知宣徽院事ケレイ(Kerei >怯来/qièlái)

脚注

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  1. ^ a b 楊2003,438頁
  2. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「謹按公、諱答失蛮、其先西域人、系出哈剌魯氏。曽祖馬馬、贈集賢学士正奉大夫護軍、追封中山郡公。祖阿里、贈資徳大夫司農卿上護軍、追封中山郡公。父哈只、贈栄禄大夫司徒柱国、追封定国公。曾祖妣太帖尼氏、祖妣忽委氏、並中山郡夫人妣阿兀思吉氏。定国夫人初集賢公在西域、為其国之近臣素倜儻有大志、知天命之有帰当」
  3. ^ a b 片山1987,558頁
  4. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「太祖皇帝正大位之六年、歳在辛未、奉其国主阿爾思蘭来、覲于龍居河。司農公前卒、乃以司徒公為質子。時年尚幼、上命育於春坊。稍長、事太宗皇帝為宝児赤。宝児赤亦蓋古内饔之職最為親密。司徒公以恭謹尤被寵遇、扈従西征、有功。妻以河西貴族定国夫人也」
  5. ^ a b c 宮2018,353頁
  6. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「世祖皇帝取南詔、伐宋、司徒公皆与行在尋、以疾卒。公少襲父職、為宝児赤。世祖甚愛重之、嘗侍上、左右極論、阿合馬尚書之政、蠹国病民、上怒而斥之曰『無預若事』。公徐対『犬馬知報其主、臣世荷国恩、事有関于治乱、安敢坐視而不言』。其後阿合馬死、尚書省罷。上乃思其直、賜以玉環及鈔二千五百緡。且諭旨後有所知其尽言毋諱」
  7. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「従討叛王乃顔有功、妻以名族女脱脱倫氏、仍賜良馬・白金、佩服珍異之物。杭海之役、督餉餽于雲中。晋王軍乏食、給以米数干石。師還、以専擅待罪上善其有識量而知権変、嘉歎不已、賜白金百両・鈔干五百緡。公因奏、『草青畜肥之日、尚除今所給未充。恐終不免転死。請増給以半年之食』。上従之。衆頼以安会」
  8. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「復立尚書省、公以前有旨、得尽言、遂指陳其非、便言尤剴切曁桑葛伏誅、而其言皆験。詔賜宅一区、固辞。乃賜玉環及燕服、以旌其忠礼遇之、厚有如於前」
  9. ^ 吉野2009,42-43頁
  10. ^ 吉野2009,44頁
  11. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「成宗臨御之初、以奉議大夫領供膳司事。叛王海都称兵内向、車駕親征倍道兼行晝夜不息、士卒已疲而後軍不継。公諌曰『独往、恐生他。虞宜徐行俟衆大集、而後進乃可為万全之策』。上韙其言。後数日戦大捷、海都敗走、凱旋而帰第功行賞賜以田三百田畝。尋擢司農丞、進職為卿」
  12. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「与其子買奴侍上疾于臥内連、数月衣不解帯。疾少間、賜以鈔二万五干緡」
  13. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「成宗賓天、公北迓武宗皇帝于野馬川、帰正宸極仁宗在儲闈、以公先朝旧人、奏為中書参知政事、仍兼司農卿、賜以金帯・犀帯・七宝笠・珠帽・珠衣・金五十両・田二千畝」
  14. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「仁宗践祚、首命僉宣徽院事。同列以出納不謹陥於私罪、公独不汚其事。仍充旧職。歴副使・同知院事、遂為其院使、累階栄禄大夫」
  15. ^ 片山1987,561-562頁
  16. ^ 片山1987,561頁
  17. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「嘗侍坐侑食。問以典故、従容奏対委曲詳尽深称、上旨賜三帯・海東白鶻、且命国工為之絵像其取重如此。俄以疾不能朝、遣尚医診視竟不可為。臨終告其諸子曰『人之隕其世業者、必自貪与奢始、汝等能兢兢自持不苟取不妄用。恒以忠君報国、尊祖睦族、為念吾死無憾矣』。語畢而逝。公持身介潔、寛厚愛人、軽財楽施、人有忿争搆怨、得一言莫不為之釈然、咸称其長者。元配納思馬立氏婦徳母儀族党称焉」
  18. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「故栄禄大夫宣徽使答失蛮、以延祐四年九月五日薨於位、享年六十。越三日、葬於京城東社、樹辛荘。其明年制贈推誠定力守正功臣太保金紫光禄大夫・上柱国、追封定国公、諡忠亮。又六年史臣礼部尚書曹元用始奉勅撰次公行業以為神道之碑。又二十四年、是為今天子、至正八年夏四月九日、上御興聖殿、西便殿、翰林学士承旨、臣岳柱為請奏命溍継元用為之銘、以賜其家碑刻焉」
  19. ^ 宮2018,398-399頁
  20. ^ 『金華黄先生文集』巻24宣徽使太保定国忠亮公神道碑,「生三子。一女前公二十九年卒、封定国夫人。継室即世祖所賜脱脱倫氏尤篤於慈愛。視三子如己出亦封定国夫人。子男三人。長買奴、累官河南江北等処行中書省平章政事。今以翰林学士承旨・栄禄大夫、致仕。次忻都、資善大夫・上都留守兼本路都総管府達魯花赤。後公十八年卒。次怯来、資善大夫・同知宣徽院事。孫男六人。亦老答而、闌遺少監。哈八失、同知河東都転塩運使司事。某某某某。曽孫男八人」
  21. ^ a b c d 楊2003,439頁
  22. ^ 宮2018,390頁
  23. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年]是歳……河決汴梁原武、浸灌諸県。滹沱決文安・大城等県。渾河溢、壊民田廬」
  24. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年秋七月]己亥……御史台臣言、内郡・江南、旱・蝗荐至、非国細故、丞相塔失帖木児・倒剌沙、参知政事不花・史惟良、参議買奴、並乞解職」
  25. ^ a b c d e f g h i j 楊2003,440頁
  26. ^ 『元史』巻34文宗本紀3,「[至順元年春正月]丁卯、雲南諸王禿堅及万戸伯忽・阿禾・怯朝等叛、攻中慶路、陥之、殺廉訪司官、執左丞忻都等、迫令署諸文牘」

参考文献

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  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年。ISBN 9784815809003NCID BB25701312全国書誌番号:23035507 
  • 四日市康博「元朝南海交易経営考 : 文書行政と銭貨の流れから」『九州大学東洋史論集』第34巻、九州大学文学部東洋史研究会、2006年、133-156頁、doi:10.15017/25833hdl:2324/25833ISSN 0286-5939 
  • 楊志玖『元代回族史稿』南开大学出版社、2003年。 NCID BA62094153https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-Ia1000089825-00 
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱:二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年
  • 新元史』巻178列伝75答失蛮伝