コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ダバイーの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダバイーの戦い
1731年4月1日
場所インドダバイー
結果 バージー・ラーオの勝利
衝突した勢力
マラーター王国 マラーター王国
指揮官
バージー・ラーオ
ピラージー・ラーオ・ガーイクワード
トリンバク・ラーオ・ダーバーデー  
戦力
不明 不明
被害者数
不明 不明

ダバイーの戦い英語:Battle of Dabhi/Dabhoi)は、1731年4月1日インドダバイーにおいて、マラーター王国の宰相バージー・ラーオと叛将である軍総司令官トリンバク・ラーオ・ダーバーデーとの間で行われた戦い。ダボイーの戦いとも呼ばれる。

戦闘に至る経緯

[編集]

1729年マラーター王国の軍総司令官カンデー・ラーオ・ダーバーデーが死亡し、1730年にその息子トリンバク・ラーオ・ダーバーデーが父の地位を継いだ[1]

ところが、トリンバク・ラーオは次第に王国宰相バージー・ラーオに反目するようになり、ついにはグジャラートを自己の勢力範囲と見なして、ニザーム王国の援助を得て公然と反抗するようになった[2][3]

そのため、1731年3月、宰相バージー・ラーオはグジャラートで活動していたピラージー・ラーオ・ガーイクワードと合流し、トリンバク・ラーオの討伐へと向かった[3]

戦闘とその後の経過

[編集]

同年4月1日、バージー・ラーオとトリンバク・ラーオの軍勢はダバイーで激突した。この戦いはバージー・ラーオの勝利に終わり、敗れたトリンバク・ラーオは敗死した[3]

この戦いの勝利により、バージー・ラーオに敵対する勢力はほぼ一掃された[2][3]。また、ピラージー・ラーオ・ガーイクワードはグジャラートを勢力範囲とし、ヴァドーダラーを中心にこの地域に勢力を張ることとなった。

脚注

[編集]
  1. ^ Madhya Pradesh Through the Ages, p.357
  2. ^ a b Advance Study in the History of Modern India (Volume-1 1707-1803) - G.S.Chhabra - Google ブックス
  3. ^ a b c d 小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、p.215

参考文献

[編集]
  • 小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』山川出版社、2007年

関連項目

[編集]