ダバイーの戦い
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ダバイーの戦い | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
マラーター王国 | マラーター王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
バージー・ラーオ ピラージー・ラーオ・ガーイクワード | トリンバク・ラーオ・ダーバーデー † | ||||||
戦力 | |||||||
不明 | 不明 | ||||||
被害者数 | |||||||
不明 | 不明 |
ダバイーの戦い(英語:Battle of Dabhi/Dabhoi)は、1731年4月1日にインドのダバイーにおいて、マラーター王国の宰相バージー・ラーオと叛将である軍総司令官トリンバク・ラーオ・ダーバーデーとの間で行われた戦い。ダボイーの戦いとも呼ばれる。
戦闘に至る経緯
[編集]1729年、マラーター王国の軍総司令官カンデー・ラーオ・ダーバーデーが死亡し、1730年にその息子トリンバク・ラーオ・ダーバーデーが父の地位を継いだ[1]。
ところが、トリンバク・ラーオは次第に王国宰相バージー・ラーオに反目するようになり、ついにはグジャラートを自己の勢力範囲と見なして、ニザーム王国の援助を得て公然と反抗するようになった[2][3]。
そのため、1731年3月、宰相バージー・ラーオはグジャラートで活動していたピラージー・ラーオ・ガーイクワードと合流し、トリンバク・ラーオの討伐へと向かった[3]。
戦闘とその後の経過
[編集]同年4月1日、バージー・ラーオとトリンバク・ラーオの軍勢はダバイーで激突した。この戦いはバージー・ラーオの勝利に終わり、敗れたトリンバク・ラーオは敗死した[3]。
この戦いの勝利により、バージー・ラーオに敵対する勢力はほぼ一掃された[2][3]。また、ピラージー・ラーオ・ガーイクワードはグジャラートを勢力範囲とし、ヴァドーダラーを中心にこの地域に勢力を張ることとなった。
脚注
[編集]- ^ Madhya Pradesh Through the Ages, p.357
- ^ a b Advance Study in the History of Modern India (Volume-1 1707-1803) - G.S.Chhabra - Google ブックス
- ^ a b c d 小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、p.215
参考文献
[編集]- 小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』山川出版社、2007年