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チャールズ・スウィッカード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チャールズ・スウィッカード
Charles Swickard
別名義 チャールズ・F・スウィッカード
Charles F. Swickard
リチャード・チャールズ・スウィッカード
Richard Charles Swickard
生年月日 (1861-03-21) 1861年3月21日
没年月日 (1929-05-12) 1929年5月12日(68歳没)
出生地 プロイセンの旗 プロイセン王国 コブレンツ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州フレズノ
職業 オペラ歌手俳優映画監督実業家
ジャンル オペラサイレント映画
配偶者 デイル・スウィッカード
著名な家族 ジョゼフ・スウィッカード
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チャールズ・スウィッカードCharles Swickard, 1861年3月21日 - 1929年5月12日)は、アメリカ合衆国オペラ歌手俳優映画監督実業家である[1]チャールズ・F・スウィッカードCharles F. Swickard)、リチャード・チャールズ・スウィッカードRichard Charles Swickard)とクレジットされたこともあった[1]

人物・来歴

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1920年の監督作品『喘ぐ霊魂』広告

1861年3月21日プロイセン王国コブレンツに生まれる[1]。5年後の1866年に生まれた弟は、後に俳優ジョゼフ・スウィッカードとなる[1][2]

当初のキャリアはオペラ歌手であり、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の舞台に立ったこともある[1]

1914年(大正3年)、満53歳になるころに映画俳優に転向、ニューヨークのミューチュアル・フィルムに入社、同社が量産する短篇映画に出演、翌1915年(大正4年)には俳優業を廃業、映画監督に転向する[1]。1916年(大正5年)にはユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、同年に設立された同社の子会社・ブルーバード映画でも、1917年(大正6年)に『双生児』を監督[1]、同作は日本でも公開された[3]

満59歳になる1920年(大正9年)には引退し、カリフォルニア州レーズン・シティに40エーカー(約16万平方メートル)のブドウ畑を購入、自邸内にはスタジオを経営、実業家としての余生を送った[1]

1929年(昭和4年)5月12日、同州フレズノ虫垂炎のため死去した[1]。満68歳没。墓所は不明である[4]

おもなフィルモグラフィ

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特筆のないものは監督作である[1]

関連事項

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  1. ^ a b c d e f g h i j Charles Swickard, Internet Movie Database (英語), 2010年5月10日閲覧。
  2. ^ Josef Swickard - IMDb(英語), 2010年5月10日閲覧。
  3. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.
  4. ^ Charles Swickard, Find A Grave (英語), 2010年5月10日閲覧。

外部リンク

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