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チョトパジャップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チョトパジャップ
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1873年同治12年)
死去: 不詳
出身地: 清の旗 チャハル盟正白旗[1]
職業: 政治家
各種表記
繁体字 卓特巴扎普
簡体字 卓特巴扎普
拼音 Zhuótèbāzhāpǔ
ラテン字 Cho-t'e-pa-cha-p'u
和名表記: チョトバジャプ
発音転記: ジュオ トゥ バー ジャー プー
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チョトパジャップ(モンゴル語:ᠵᠤᠳᠪᠠᠵᠠᠪ Жодовжав、転写:Jodobjab、卓特巴扎普)は、清朝中華民国軍人政治家モンゴル族デムチュクドンロブ(徳王)らの蒙古自治運動に参加した人物の1人である。世海什海卓王とも呼ばれる。

事跡

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1900年光緒26年)、三群馬隊の哨官として軍歴を開始する。清朝の牧場の委協領、正協領を歴任し、1909年宣統元年)、牧場総管となった。1911年宣統3年)、モンゴル(外蒙古)軍と国境のダリガンガ(達里崗崖)で戦う。しかし敗北して捕らえられ、フレー(庫倫)に3年間拘禁された。

帰国後に、チョトパジャップは北京政府から記名副都統に任ぜられた。1915年民国4年)、匪賊討伐に軍功をあげ、四等文虎章を授与されている。同年、(明安(ミンガン)牧場長も兼ねた。翌年、バボージャブらを討伐して、これを捕虜としている。この軍功により、陸軍中将に昇進した。1918年(民国7年)8月、安福国会で衆議院議員に選出される。

国民政府成立後の1929年(民国18年)に、蒙蔵委員会北平弁事処副処長に任ぜられる。1932年(民国21年)10月、蒙古地方自治政務委員会察哈爾(チャハル)部保安長官に任ぜられた。翌年8月、察哈爾省政府委員に任命される。1934年(民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員となった。それからまもなく、チョトパジャップはデムチュクドンロブや李守信に協力して、南モンゴル自治運動を開始する。

1937年(民国26年)10月、チョトパジャップは蒙古聯盟自治政府に参加し、参議兼察哈爾盟盟長に就任する。翌月、蒙疆聯合委員会総務委員会委員となった。翌年7月、同委員会の総務部部長に昇格している。1939年(民国28年)9月、蒙古聯合自治政府が成立すると、政務院院長兼察哈爾盟盟長となった。翌年3月、南京国民政府(汪兆銘政権)の中央政治会議に、蒙古側代表として参加した。まもなく、中国国民党中央執監委員、中央政治委員会委員に選出されている。1941年(民国30年)、蒙古聯合自治政府参議会議長に異動した。

1945年(民国34年)以後の消息は不明である[2]

脚注

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  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』による。『最新支那要人伝』によれば、察哈爾盟明安旗出身。
  2. ^ 劉寿林ほか編『民国職官年表』では、1945年まで参議会議長の地位にあったとしている。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  蒙古聯合自治政府(蒙疆聯合自治政府、蒙古自治邦)
先代
(創設)
政務院長
1939年9月 - 1941年6月
次代
呉鶴齢
先代
呉鶴齢
参議会議長
1941年6月 - 1945年?月
次代
(廃止)