チントン
チントン(モンゴル語: Čingtong、? - 1368年)は、大元ウルスに仕えた将軍の一人。主に元末の混乱期に紅巾の乱討伐で功績を残した事で知られる。
『元史』などの漢文史料における漢字表記は慶童(qìngtóng)。
概要
[編集]チントン(慶童)はカンクリ部の出で、祖父のメリク・テムル(明里帖木児)、父のオロス(斡羅思)はともに益国公に封ぜられた名家の出であった。チントンも勲臣の子孫であることを理由に大宗正府掌判に抜擢され、以後上都留守、江西・河南・遼陽行省の平章政事を歴任した。遼陽行省の平章政事に任じられた時は、寛厚な政治を行ったため現地の民から慕われたという[1]。
1350年(至正10年)には江浙行省の平章政事に移ったが、長く続く太平の中で綱紀は緩み高官たちは宴楽に耽る有様であったという。1351年(至正11年)、河南行省の汝州・潁州で紅巾の乱が勃発すると叛乱は江浙行省も波及し、江東の饒州・信州・徽州・宣州・鉛山州・広徳、浙西の常州・湖州・建徳は守る者もなく荒らされた。そこでチントンは配下の者達を派遣してこれらの地域を奪還し、また叛乱に加わった者達は罪に問わず、官倉から食料を出して現地の人心を安定させた[2]。
1354年(至正14年)、太師・右丞相のトクトは叛乱鎮圧のため大軍を率いて南下を始めたが、武具・兵糧等は江浙行省で提供されることになった。この物資補給を担ったのがチントンで、陸運・水運を駆使して補給を滞らせることなく、朝廷はチントンを大いに頼ったという。1355年(至正15年)、朝廷では際限なく発生する盗賊を殲滅すべきであるという議論が起こったが、チントンは軍による威圧は反発を受けるのみであり、利を以て説得すべきであると反対した。はたして、チントンの働きかけによって武装を解き投降する者もあらわれたという[3]。
1356年(至正16年)には平江・湖州が陥落した。この頃、義兵元帥の方家奴が杭城の北関に駐屯し、民から財貨を略奪して恨みを買っていた。チントンは丞相タシュ・テムルに 「方家奴のように規律がない者がいて、どうしてわが軍は敵に勝てましょうか。まず方家奴を斬首としてから軍をだすべきです」と進言し、この進言通り方家奴が処刑されると民は大いに喜んだという。その後、「苗軍」を率いる楊オルジェイが杭城に駐屯したが、楊オルジェイもまた白蓮教徒討伐の功績により増長した傍若無人な人物であった。ある時、楊オルジェイはチントンの娘を娶ることを申し出、チントンは最初これを断ったものの、楊オルジェイの武力を重視するタシュ・テムルの強要によってやむなくチントンは娘が嫁ぐことを許したという[4][5]。
1357年(至正17年)、チントンは杭州から遠く離れた海寧州に出鎖した。海寧州は貧しい土地で盗賊が横行してが、チントンの2年にわたる尽力によって盗賊はほとんどいなくなったという。それまでの功績により、チントンは翰林学士承旨・淮南行省平章政事の地位を授けられたが、淮南に赴任しない内に再び江浙行省に転任となった[6]。
1358年(至正18年)には福建行省平章政事に任命されたが、現地に赴任しない内に改めて江南御史大夫に任じられた。しかし、江南御史台の治所である紹興以外は既に反乱軍の拡大によって指令が届かない状態にあり、東方の明州・台州一帯は方国珍が、西方の杭州・蘇州は張士誠によって支配されていた[7]。なお、この頃楊オルジェイの増長悩まされていたタシュ・テムルが張士誠と諮って楊オルジェイを謀殺しているが、チントンの娘は事前に父の下に戻っており難を免れている[8]。
1360年(至正20年)、チントンはもはや有名無実と化していた江南御史台から中央に召喚され、中書平章政事に任命された。しかしこの頃、チントンの息子の剛僧が宮人と私通したとの密告があり、怒ったウカアト・カアンによって剛僧は処刑されてしまった。これを受けて鬱屈したチントンは家に引きこもり、日々酒を飲んで過ごす日々を送ったという。1365年(至正25年)には陝西行省左丞相に任命されたが、この頃李思誠が兵を率いて関中に入っていた。しかしチントンは礼を以て李忠誠を逃し、チントンが赴任している間陝西地方では戦乱が起きず、この功績によってチントンは再び中央に召喚された[9]。
1368年(至正28年)7月、大明皇帝を称した朱元璋の軍団が大都に迫ると、皇帝・皇太子以下政府高官は大都を棄てモンゴル高原に逃れることを決めた。そこで大都に残留して明軍を迎え撃つよう命じられたのが皇族の淮王テムル・ブカで、チントンは中書左丞相としてテムル・ブカを補佐するべく、大都に残ることになった。8月2日、激戦の末城壁が破られるとチントンはテムル・ブカとともに東の斉化門から出ようとして果たせず、ともに戦死した[10]。
家系
[編集]- カシ(Qaš >哈失/hāshī)
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻142列伝29慶童伝,「慶童字明徳、康里氏。祖明里帖木児、父斡羅思、皆封益国公。慶童早以勲臣子孫受知仁廟、給事内廷、遂長宿衛。授大宗正府掌判、三遷為上都留守。又累遷為江西・河南二行省平章政事。入為太府卿。復為上都留守。出為遼陽行省平章政事、以寛厚為政、遼人徳之」
- ^ 『元史』巻142列伝29慶童伝,「至正十年、遷平章、行省江浙。適時承平、頗沈湎于宴楽、凡遺逸之士挙校官者、輒擯斥不用、由是不為物論所与。明年、盗起汝・潁、已而蔓延于江浙、江東之饒・信・徽・宣・鉛山・広徳、浙西之常・湖・建徳、所在不守。慶童分遣僚佐往督師旅、曽不踰時、以次克復。既乃令長吏按視民数、凡詿誤者悉置不問、招来流離、俾安故業、発官粟以賑之。省治燬于兵、則拓其故址、俾之一新。募貧民為工役而償之以銭、杭民頼以存活者尤衆」
- ^ 『元史』巻142列伝29慶童伝,「十四年、脱脱以太師・右丞相統大兵南征、一切軍資衣甲器仗穀粟薪藁之属、咸取具於江浙。慶童規措有方、陸運川輸、千里相属、朝廷頼之。明年、盗起常之無錫、衆議以重兵殲之、慶童曰『赤子無知、迫於有司、故弄兵耳。苟諭以禍福、彼無不降之理』。盗聞之、果投戈解甲、請為良民」
- ^ 植松1997,447頁
- ^ 『元史』巻142列伝29慶童伝,「十六年、平江・湖州陥。義兵元帥方家奴以所部軍屯杭城之北関、鉤結同党、相煽為悪、劫掠財貨、白晝殺人、民以為患。慶童言于丞相達識帖睦邇曰『我師無律、何以克敵?必斬方家奴乃可出師』。丞相乃与慶童入其軍、数其罪、斬首以徇、民大悦。継而苗軍帥楊完者以其軍守杭城。丞相達識帖睦邇既承制授完者江浙行省右丞、而完者益以功自驕、因求娶慶童女。慶童初不許、時苗軍勢甚張、達識帖睦邇方倚以為重、強為主婚、慶童不得已以女与之」
- ^ 『元史』巻142列伝29慶童伝,「明年、出鎮海寧州、距杭百里、地瀕海磽瘠、民甚貧。居二年、盗息而民阜。至是、慶童在江浙已七年、渉歴険艱、労績甚優著、召拝翰林学士承旨、改淮南行省平章政事、未行、仍任江浙」
- ^ 『元史』巻142列伝29慶童伝,「十八年、遷福建行省平章政事、未行、拝江南行台御史大夫、賜以御衣・上尊。時南行台治紹興、所轄諸道皆阻絶不通。紹興之東、明・台諸郡則制於方国珍、其西、杭・蘇諸郡則拠於張士誠。憲台綱紀不復可振、徒存空名而已」
- ^ 植松1997,448頁
- ^ 『元史』巻142列伝29慶童伝,「二十年、召還朝、慶童乃由海道趨京師。拝中書平章政事。俄有譖其子剛僧私通宮人者、帝怒殺之。慶童因怏怏不得志、移疾家居久之、日飲酒以自遣。二十五年、詔拝陝西行省左丞相。時李思斉擁兵関中、慶童至則御之以礼、待之以和。居三年、関陝用寧。召還京師」
- ^ 『元史』巻142列伝29慶童伝,「二十八年七月、大明兵逼京城、帝与皇太子及六宮至於宰臣近戚皆北奔、而命淮王帖木児不花監国、慶童為中書左丞相以輔之。八月二日、京城破、淮王与慶童出斉化門、皆被殺」
参考文献
[編集]- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID:000002623928。
- 『元史』巻142列伝29慶童伝
- 『新元史』巻199列伝第96慶童伝
- 『蒙兀児史記』巻123列伝105慶童伝