ツェツィーリエ・フォン・プロイセン
ツェツィーリエ・フォン・プロイセン Cecilie von Preußen | |
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ホーエンツォレルン家 | |
ツェツィーリエ王女(右)、母ツェツィーリエ皇太子妃(中央)、姉アレクサンドリーネ王女(左)、1934年。 | |
出生 |
1917年9月5日 ドイツ プロイセン王国、ツェツィーリエンホーフ宮殿 |
死去 |
1975年4月21日(57歳没) 西ドイツ、ケーニヒシュタイン |
埋葬 | 西ドイツ、ヘヒンゲン、ホーエンツォレルン城内ザンクト・ミヒャエル稜堡 |
配偶者 | クライド・ハリス |
父親 | ヴィルヘルム・フォン・プロイセン |
母親 | ツェツィーリエ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン |
ツェツィーリエ・フォン・プロイセン(Cecilie Prinzessin von Preußen, 1917年9月5日 - 1975年4月21日)は、ドイツ・プロイセンの旧統治者家門ホーエンツォレルン家の一員。ドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム2世の孫娘の1人。
生涯
[編集]ヴィルヘルム2世の長男ヴィルヘルム皇太子と、その妻でメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世の娘であるツェツィーリエ皇太子妃との間に第6子、次女として生まれた[1]。全名はツェツィーリエ・ヴィクトリア・アナスタジア・ツィタ・ティーラ・アーデルハイト(Cecilie Viktoria Anastasia Zita Thyra Adelheid von Preußen)。1918年のドイツ革命後も母親や兄姉と一緒にポツダムに留まり、少女時代はエールス(現在のポーランド領ドルヌィ・シロンスク県オレシニツァ)の城で育てられた。
1932年から1934年までハイリゲングラーベ(現在のブランデンブルク州オストプリーグニッツ=ルピーン郡)の宗教系女学校に在学し、その後はプロイセン文化財機密国家公文書館(Geheimes Staatsarchiv Preußischer Kulturbesitz)で勤務した。第2次世界大戦中にはポツダムの野戦病院の薬局で働いたり、ドイツ赤十字社の看護助手を務めた。大戦末期、ベルリンに赤軍が迫ると、親戚のヘッセン大公家を頼ってヴォルフスガルテン城(Schloss Wolfsgarten)に避難した。
1949年、アメリカ占領軍の士官で建築家のクライド・ハリス(1918年 - 1958年)と結婚し、夫の住むアマリロ(アメリカ合衆国テキサス州)に移った。夫妻は娘を1人もうけたが、ツェツィーリエは1958年に夫に先立たれた。1975年にケーニヒシュタイン(ヘッセン州ホーホタウヌス郡)で病気療養中に急死し、ヘヒンゲン(バーデン=ヴュルテンベルク州ツォラーンアルプ郡)のホーエンツォレルン城内のザンクト・ミヒャエル稜堡(St.-Michaels-Bastei)に葬られた。
脚注
[編集]- ^ Lundy, Darryl. “Cecilie Viktoria Anastasia Zita Thyra Adelheid Prinzessin von Preußen”. 1 April 2012閲覧。