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テーバイのクラテス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テーバイのクラテス(ドメニコ・フェッティのサークルにいた不詳の画家による)。

テーバイのクラテスギリシア語: Κράτης, 英語:Crates of Thebes, 生没年未詳)は、紀元前325年頃が全盛のキュニコス派哲学者。クラテスはアテナイの通りで貧困の生活を送るべく、自分の財産を投げ捨てた。同じ生き方をしたヒッパルキアと結婚した。アテナイの人々からは尊敬され、ストア派の創設者キティオンのゼノンの師としても知られている。クラテスの教えの断片のうち現存する者がいくつかあり、その中には理想的なキュニコス派国家を記したものも含まれる。

生涯

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クラテスはテーバイで生まれた。生年ははっきりしない。ディオゲネス・ラエルティオスは、その全盛は紀元前328年から紀元前325年の間(第113オリンピアード)としている[1]。 アスコンダスの子で、莫大な財産を相続したが、アテナイでキュニコス派的な貧困の生活を送るべく、その財産を投げ捨てたと言われている。そのことについてはさまざまな逸話がある。たとえば、ある悲劇で乞食王テレポスのことを知ったことが、自分の財産をテーバイ市民に与えるきっかけになった[1]。あるいは、もし息子が哲学者にならないのなら金は息子に、哲学者になるのなら金を貧しい人々に分配するという条件で両替商の手にお金を預けた[1]、などである。

クラテスはアテナイに移り住み、その地の言い伝えではシノペのディオゲネスの弟子になったと言われる一方で、アカイアのブリュソンBryson of Achaea[1]、もしくはスティルポン(スティルポーン)[2]の弟子だったという説もある。クラテスは明るく質素な生活を送った。現存していないがクラテスの伝記を書いたプルタルコスは、クラテスの人物像を次のように書いている。

ずだ袋とボロ服しか持たないクラテスだったが、自分の生き方を大笑いした、まるで祭の時はいつもそうだったように。 — [3]

クラテスは足が不自由で肩には瘤があったと言われている[4] 。クラテスのあだ名は「ギリシア語: θυρεπανοίκτης(扉を開ける人)」で、その由来は、クラテスがどこの家に入ろうと、その家の人々は快く礼をもって歓迎したからである[5]

彼は招かれざるとも友人の家々に入った。家族の争いを仲裁するためで、たとえその争いがひどい時でも。彼は家族を厳しくたしなめることはせず、穏やかなやり方で、誤りを正すべき人々を非難しなかったのは、話に耳を傾ける人々同様に家族の助けになりたかったからである。

— [6]

クラテスは、弟子の一人メトロクレスMetrocles)の姉妹だったマローネイアヒッパルキアに見初められた。ヒッパルキアはクラテスとその生き方・教えに恋し、クラテスに似たやり方で、裕福な育ちを捨て、クラテスと結婚した。この結婚は両者の尊敬と平等に基づいていたため、古代では珍しいことだった。ヒッパルキアがどこでもクラテスと一緒だったという逸話が言及されているのも、立派な女性はそのようなことはしなかったからである。二人の間には少なくとも二人の子供がいた、娘と、パシクレスという名前の息子である。クラテスが息子を売春宿に連れて行き、セックスの手ほどきをし、娘には求婚者との一ヶ月の試験結婚を許したとも言われている[1]

クラテスは4世紀の末にキティオンのゼノンの師で[7]、ゼノンがストア派哲学を発展させるうえでクラテスから多大な影響を受けたことは疑いないだろう。ゼノンは常にクラテスを尊敬していた。おそらく今に伝わるクラテスの哲学の多くは、ゼノンの著作を通じてのものだろう。

パレロンのデメトリオスがテーバイに追放された紀元前307年に、クラテスもテーバイにいた[3]。クラテスの没年についてははっきりしない。

哲学

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クラテスは哲学的な主題に関する書簡本を書き、そのスタイルについて、ディオゲネス・ラエルティオスはプラトンのそれと比較している[1]。しかし現存していない。クラテスはさらにいくつかの哲学的悲劇と、「ギリシア語: Παίγνια(Games)」と呼ばれるいくつかの短い詩も書いた。

クラテスの教えの断片が複数残っている。クラテスは質素な禁欲生活を教えたが、それはクラテスの師シノペのディオゲネスよりは穏便だったようである。

「私が哲学者になったら、私に何がありますか?」と尋ねた男にクラテスは答えた。「ちょうど今、君が麻痺した手でするように、もじもじしたり、躊躇したり、震えたりする代わりに、その手で簡単に財布を開き、その中身を気前よく分け与えることができるようになる。本当だとも、もし財布の中身がいっぱいなら、それを試してみたらいい。もし財布が空なのなら、君は悩まなくていい。いったん君がお金をそうすることを選んだら、君はそれを憧れたり、持たないものを欲しがることも、手に入ったどんなものにも不満も持たず、あるものだけで満足して暮らすようになるだろう。 — [8]

クラテスの哲学は穏便で、豊かなユーモアが詰まっていた。クラテスは人々に食事ではレンズマメ以外は好まないようにと訴えた。贅沢と浪費は都市の扇動や暴動の主要な原因だったからである[3]。この冗談は後に多くの風刺を生んだ。たとえばアテナイオスの『食卓の賢人たち』第4巻では、キュニコス派の集団が食事するために座し、レンズマメ・スープの皿の後に皿を配られる[9]

クラテスの詩の一つはソロンによって書かれた有名なムーサ讃歌をパロディにしたものである。ソロンが繁栄や評判、「正当に獲得した財産」を望んだのに対して、クラテスは典型的なキュニコス派の欲望を歌った。

ムネーモシュネー、オリンピアのゼウスピエリアのムーサイの輝かしい子供たち、私の祈りを聞け! 私の腹に絶え間なく食べ物を与えてくれ。これまでいつも私の暮らしを質素にし、奴隷の身から自由にした食物を……。私を愛想の良さ以上に友人たちの役に立たせてくれ。金について言えば、私は莫大な富を貯めるどころか、カブトムシの富、アリの生活費も求めない。否、私は正義を所有し、容易にもたらされた、容易に手に入った、徳にとって大きな助けとなる豊かさを手に入れたいとは思う。もし私がそれらを得られないのなら、私はヘルメースと聖なるムーサイの機嫌を取ろう、贅沢なご馳走でなく、敬虔な徳でもって。 — [10]

クレタ島について歌ったホメーロスの一節[11]のパロディで始まる、理想的なキュニコス派国家を描いたクラテス作の詩の断片がいくつか現存している。クラテスの都市は「ペーレー(Pera)」と呼ばれ、それはギリシャ語ですべてのキュニコス派が携帯していたずだ袋のことである。

葡萄酒色のTuphosの真只中に、ペーレーなる都市があり、美しく肥沃でもあり、いたるところ不潔で、何もない。愚かな食客も、売春婦の尻の中で大喜びする遊び人もかつて海を渡ってきたことはなく、タイム、ニンニク、イチジク、パンを生産し、市民は他者と戦わないので、現金や名声を得るために、武器も持たない。 — [12]

第1行にある「tuphos(ギリシア語: τῦφος)」という語は、文字通りには「霧」「煙」を意味する、キュニコス派では、多くの人々をくるむ精神的な混乱を表す意味に使われた。キュニコス派はその霧を晴らし、世界をありのままに見ようと努めた。

脚注・参考文献

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  1. ^ a b c d e f ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』iv.85-93
  2. ^ セネカ『書簡集』10. 1.
  3. ^ a b c プルタルコス『モラリア』
  4. ^ Julian, Orations, 6.201b.
  5. ^ プルタルコス『Symposiacs』2.1.
  6. ^ Julian, Orations, 6.201b from Reale, G., (1980), The Concept of First Philosophy and the Unity of the Metaphysics of Aristotle, page 34. SUNY Press. See also Apuleius, Florida, xiv, who makes a similar statement.
  7. ^ ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』vii.2
  8. ^ Teles, Fragment 4a, from O'Neill, E., Teles: The Cynic Teacher. Missoula. (1977).
  9. ^ アテナイオス 『Deipnosophists』iv.
  10. ^ Julian, Orations, 6.199d-200a, from Navia, L., Classical Cynicism: A Critical Study, Greenwood Press. (1996).
  11. ^ ホメーロス『オデュッセイア』19. 172-74。「葡萄酒色の大海の真只中に、クレタなる土地があり、美しく肥沃でもあり、四方を海に囲まれております。」松平千秋・訳(岩波書店)
  12. ^ Crates, Fragment 6, from Gutzwiller, K., Guide to Hellenistic Literature, page 136. Blackwell Publishing. (2007).

外部リンク

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