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ディープ・スロート (映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ディープ・スロート
Deep Throat
監督 ジェラルド・ダミアーノ
脚本 ジェラルド・ダミアーノ
製作 ウィリアム・J・リンクス
ルイス・ペライノ
フィル・ペライノ
出演者 リンダ・ラヴレース
ハリー・リームス
ドリー・シャープ
ビル・ハリソン
公開 アメリカ合衆国の旗 1972年6月12日
日本の旗 1975年8月16日[1]
上映時間 61分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
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ディープ・スロート』(Deep Throat)は、アメリカ合衆国1972年夏に公開された成人映画ハードコア。脚本・監督:ジェラルド・ダミアーノ、主演:リンダ・ラヴレース。アメリカ公開後に世界中の映画館で上映され、1970年代ポップカルチャーに影響を与えた。上映時間61分。

内容は、喉の奥に陰核がある[1]という設定の女性が登場する、ディープスロートをテーマにしたポルノ作品である[2][3]

キャスト

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スタッフ

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  • 監督、脚本、音楽、編集:ジェラルド・ダミアノ
  • 製作:ウィリアム・J・リンクス、ルイス・ペライノ、フィル・ペライノ

製作

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資金調達

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ルイス・"ブッチ"・ペライノによって製作された。制作費は2万2千から2万5千ドル(約550万円)[4]で、ブッチはその大半を父親のアンソニー・"ビッグ・トニー"・ペライノと叔父のジョー・"ザ・ホエール"・ペライノに頼んで出してもらった。

撮影

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監督のジェラルド・ダミアノは本名を出すのをはばかり、変名の「ジェリー・ジェラルド」としてクレジットされた。さらにダミアノはパーティーの場面で短時間現れる。クレジットに彼は「アル・ゴーク」と記述された。彼は収益に対する3分の1の権利を持っていたが、映画が大成功するとペライノらに取り分を踏み倒された。

主演のリンダ・ラヴレースは本作の大ヒットで、一躍ポルノ界の大物女優にのしあがったが、本作の出演料は1200ドルだったという。のちに出版した自伝では、夫のチャック・トレイナーが彼女を無理やり出演させ、さらに出演料を横取りしたとして非難している。

共演のハリー・リームスは、もともとも製作スタッフとして200ドルで雇われたのだが、100ドルの上乗せで映画にも出演することにした[5]

リンダの夫チャック・トレイナーも撮影のマネージャーとして働いていた。一時は俳優として出演しようとしたが、カメラの前で勃起することができなかった。リンダ・ラヴレースとは1974年に離婚し、別のポルノスターのマリリン・チェンバースと浮名を流した。 撮影場所には、ニュージャージーの某アパートの一室を使い、3日間で完成させた[4]

公開

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映画は公開されると、その奇抜な発想がウケて[2]ポルノ映画としては空前の大ヒットとなった[2]。当初はアメリカでもニューヨークサンフランシスコなどの大都市以外では上映禁止になっており、海外配給も当時まだ数か国にとどまっていたポルノ解禁国のスウェーデンデンマークだけであった[2]。トータルの興行収入は約6億ドル、当時の円換算で2000億円近いとする、信頼性が怪しい説[6]もある一方、"ビッグ・トニー"がマフィアのコロンボ一家に所属していたためFBIがこの映画の利益を調査し、およそ1億ドル(当時300円強なので300億円強)の収入があったと推定している[7]。これは同時期の大作「ゴッドファーザー」の興行収入の1/3を超える金額である。

日本公開

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前述のように世界でもハードコアを解禁していた国(ポルノ解禁国)は多くはなく[2]フランスでもハードコアが解禁されたのは1975年の4月だった[8]日本ではそれをあえて東映系の洋画配給会社・東映洋画が買い付け、新興の会社として業界にひと泡吹かせてやろうという意気込んだ[2][3][9]。この時点で『ディープ・スロート』の配収は全世界で50億円[9]。しかしハリー・リームスら俳優の性器丸出しのわいせつなシーンカットの嵐で、日本でまともに映写できるのは15分程度と1本の映画として成り立たず、元々70分しかない短い映画が公開不能になった[3][9][10][11]。頭を抱えた東映は同じダミアーノ監督『ミス・ジョーンズの背徳』とくっつけて二部構成にする苦肉の策をとった[3][9]。そこで、話の辻褄を合わせるため、ピンク映画の監督・プロデューサー向井寛に頼み[9][10]、向井が日本国内で外国人女性を使って演出したオリジナルシーンを撮り足して1本の作品に仕上げた[3]

向井は1974年8月にデンマークコペンハーゲンの劇場で鑑賞済みで、当地では一流劇場で掛かり、紳士淑女が端然と座し、画面を堪能していたという[9]。向井は、話の筋はセックスをパロディ化した他愛ないものという感想を持ったが、30センチの巨根をグィッとひと飲みにするリンダ、泡を噴き出す口内射精、すさまじい乱交パーティと、客を釘付けにする生の本番の迫力には度肝を抜かれた[9]。向井は職業上、映倫アレルギーになっていたから、一種の清涼感を与えてくれたという。向井は東映洋画に呼びつけられ、日本で公開するべく編集を頼まれた。「あんなもの、日本ではダメでしょう」とせせら笑って断ったら、東映洋画の鈴木常承部長から「当然!でもそのダメなものに価値がある。それで商売したいんだ」と激しく訴えられた[9]。やむなく試写を観せられたが、ズタズタに税関カットされた白味だらけで、とても作業は無理と判断した。しかし「君がダメだと云うならあきらめるでえ」と言われた。この一言で向井はハラを決めた[9]。翌日から主演のリンダ・ラヴレースに似た外国人女性の手配に飛び回った[9]。実際には分からないが向井はリンダは、プエルトリコ系で[9]、髪は黒茶色、顎の出張った非常に個性的な顔をしていると判断した[9]。スタッフは、横浜横須賀と外国人がいそうなところに網を張り、やっと18人目に立川基地に勤務する現役軍人の女性を探し当て、リンダと決定した[9]。全編の内、35分の修復作業は、技術的にも難航。あらゆるアングル、あらゆるサイズを撮り白味部分に当てはめてみるが上手くいかない。全スタッフ協議の結果、複数の女性の各部分、唇、頬、顎を撮り集めリンダの特徴を出すことになった。これが意外に効果があり、特に尺八シーンは迫力を出すことに成功した[9]。1975年7月28日初号完成。試写室では、東映幹部から向井に労をねぎらう言葉で溢れた。しかし向井は何故か素直にその言葉を受け取れなかった。「俺にとって映画とは何だろう?」と自問自答を繰り返した[9]

日本版キャッチコピーは「上映実現! 今世紀最大のスキャンダル・フィルムがとうとうやってくる 本日アメリカ・スウェーデン・デンマークに次いで世界4番目の解禁成る!」で[11]、もちろん、日本ではポルノ解禁はされなかったが、日本での上映が決定すると、新聞各紙は「あれはインチキだ!」「こんなことをしていては映画がダメになる」などと滅茶苦茶に叩いた[9]。まさしくこれは正論と言え[11]、当時の観客は本来の『ディープ・スロート』とはまるで違うものを見せられつつ、その"噂"に金を払ったのである[11]。東映は作品の実体ではなく『ディープ・スロート』という衝撃的作品の"風説"を売るというプロモーションを成功させた[11]。このエピソードは、映画の見世物性を語る上でも興味深い事例と言える[11]

1975年8月16日[1]より公開され、作品そのものの持つ知名度と大宣伝により、日本の洋画ポルノの興行では初めてとなる8週間のロングランを記録し[9]配収1億7000万円の大ヒットになった[3][9]。この功労により東映は向井に大きな権限を与え、これを機に向井は東映から「500万円ポルノ」を大量に発注しユニバースプロを設立、これが後に獅子プロダクションへと移行し滝田洋二郎片岡修二らを育て、また不遇だったピンク映画出身監督に一般映画制作のチャンスを与える先例となった[3][10]

脚注

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  1. ^ a b c ディープ・スロート - KINENOTE
  2. ^ a b c d e f 斉藤守彦 (2017年4月16日). “【映画を待つ間に読んだ、映画の本】第41回『洋ピン映画史/過剰なる『欲望』のむきだし』〜まさに博覧強記。大衆娯楽の栄枯盛衰を探った傑作。”. BOOKSTAND映画部. 博報堂ケトル/博報堂. 2018年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 二階堂卓也『ピンク映画史』彩流社、2014年、311-317頁。ISBN 978-4779120299 
  4. ^ a b 週刊サンケイ、1982年1月21日号p150-154
  5. ^ 当時のアメリカのポルノ俳優の出演料は、1日150ドルから200ドル(約33,000円から44,000円)、撮影クルーは1日150ドル、助監督は50ドル(約11,000円)。1本の製作費はどこかのアパートを借りて撮影すると約5,000ドル(約110万円)程度であった(週刊サンケイ、1982年1月21日号p150-154)。地方ロケが入ると製作費はこれより高くなる。
  6. ^ Fenton Bailey (March 5, 2005). “'Throat' Gets Cut, Directors Perform Surgery”. World of Wonder. World of Wonder Productions. March 12, 2005時点のオリジナルよりアーカイブ。February 18, 2009閲覧。
  7. ^ 英文Wikipediaの記述による
  8. ^ 「映倫50年の歩み」編纂委員会編『映倫50年の歩み』映画倫理管理委員会、2006年、222頁。 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「顔と言葉 向井 寛 東映で活劇大写真を撮る!」『キネマ旬報』1975年11月下旬号、キネマ旬報、55頁。 
  10. ^ a b c 杉作J太郎・植地毅(編著)『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年、252-255頁。ISBN 4-19-861016-9 
  11. ^ a b c d e f 樋口尚文『映画のキャッチコピー学』洋泉社〈映画秘宝セレクション〉、2018年、273-274頁。ISBN 9784800314055 

関連項目

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外部リンク

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