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トイナク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トイナク(Toyinaq, ? - 1328年)は、大元ウルスに仕えた将軍・政治家。『元史』などの漢文史料では脱因納(tuōyīnnà)、『集史』などのペルシア語史料ではطوینه(ṭūīnah)と記される。

概要

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トイナクはクビライの治世後半から大元ウルスに仕え始め、ナヤンの乱鎮圧戦に従軍したことが記録されている。クビライの後を継いだオルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)の治世に入ると、カーンに売却された宝飾品の価格を巡る贈賄事件に巻き込まれた。この事件は『元史』に記載がなく『集史』「テムル・カーン紀」にのみ記されるもので、中書省のダーシュマン丞相以下政府の高級官僚たちが多数逮捕・拘禁されたがチベット仏教僧のタムパ・バクシのとりなしによって釈放されたという[1]

その後、復職したトイナクはオルジェイトゥ・カーンの治世において1303年(大徳7年)に欽察衛親軍千戸所ダルガチ・武徳将軍、1304年(大徳8年)に太僕少卿を、1306年(大徳10年)に阿児魯軍万戸府ダルガチ及び中奉大夫・太僕少卿を、それぞれ歴任した。その後も甘粛行尚書省参知政事、太僕卿、阿児魯万戸府襄陽漢軍ダルガチ、甘粛行中書右丞、通政使を務めた。

1328年(致和元年/天順元年/天暦元年)、天暦の内乱が起こるとトイナクは大都派についたため、上都派の首魁ダウラト・シャーによって殺されてしまった。内乱終結後、大都派によって擁立されたトク・テムルはトイナクを冀国公に追封してその忠義を讃えた。トイナクにはディントン(定童)とジルカラン(只児哈朗)という息子があり、ディントンがトイナクの地位を継いで阿児魯万戸府襄陽万戸府漢軍ダルガチとなった。 [2]

脚注

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  1. ^ 宮2018,727頁
  2. ^ 『元史』巻135列22脱因納伝,「脱因納、荅荅児氏。世祖時従征乃顔、以功受上賞。大徳七年、授欽察衛親軍千戸所達魯花赤・武徳将軍、賜金符。八年、改太僕少卿。十年、遷阿児魯軍万戸府達魯花赤、易金虎符、進階懐遠大将軍。尋改中奉大夫・太僕少卿、仍兼前職。至大二年、拜甘粛行尚書省参知政事・通奉大夫。四年、入為太僕卿、陞正奉大夫。皇慶元年、授阿児魯万戸府襄陽漢軍達魯花赤、仍領太僕卿。延祐三年、拜資徳大夫・甘粛行中書右丞。至治二年、改通政使、転会福院使、尋復通政。致和元年、分院上都。秋八月、為倒剌沙所殺。文宗即位、特贈宣力守義功臣・栄禄大夫・上柱国・中書平章政事、追封冀国公、諡忠景。有子曰定童・只児哈朗。定童襲父職、阿児魯万戸府襄陽万戸府漢軍達魯花赤、佩金虎符、明威将軍。只児哈朗、初授欽察親軍千戸所達魯花赤、佩金符、武略将軍。改授朝列大夫・通政院副使、歴同知、陞院使、積官中奉大夫」

参考文献

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  • 元史』巻135列伝22
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh(Tihrān, 1373 [1994 or 1995])
    • (中訳) 余大鈞,周建奇訳『史集 第2巻』商務印書館、1985年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年