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トカ・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トカ・テムル(Tūqā Tīmūr/Tūqāy-Tīmūr/Tūqāy Tīmūr、生没年不詳)は、ジョチ・ウルスの王族。チンギス・カンの長男のジョチの十三男。

略歴

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ジョチが没して兄のバトゥが一家の当主となった後、トカ・テムルは他の年少の兄弟とともに長兄のオルダが支配する左翼ウルス(オルダ・ウルス)にとどまった[1]。トカ・テムルはジョチがもうけた年少の子供の中で唯一オゴデイグユクの即位式に参加し、モンケカアンに選出するクリルタイにも出席している[2]。バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征には参加せず、本国に残っている[2]。トカ・テムルが他に目立った行動を起こした記録は同時代の史料には見られない[2]

ベルディ・ベク・ハンの在位中(1357年 - 1359年)に左翼ウルスはカラ・キシ(非チンギス・カン裔)のテンギス・ブカに支配されていたが、1360年代にトカ・テムル家の王子がテンギス・ブカを殺害し、トカ・テムル家の人間が左翼ウルスのハン位に就くようになる[3]。左翼ウルスの支配者の一人であるオロスの子孫が樹立した政権はジョチ・ウルスの後継国家の中で最も広範囲・長期にわたって繁栄した[4]

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イルハン朝で編纂された『集史』には、トカ・テムルには以下の子がいたと記されている[5]

  • バイムル
  • バヤン
  • ウルン・テムル
  • キン・テムル

主なトカ・テムル家出身のジョチ・ウルスの君主

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トカ・テムル家が樹立した政権

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脚注

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  1. ^ 赤坂「トカ=テムル裔の系譜情報の復元」『中央ユーラシアにおける民族文化と歴史像』、8頁
  2. ^ a b c 赤坂「トカ=テムル裔の系譜情報の復元」『中央ユーラシアにおける民族文化と歴史像』、40頁
  3. ^ 川口「キプチャク草原とロシア」『中央ユーラシアの統合』、287-288頁
  4. ^ a b 赤坂「トカ=テムル裔の系譜情報の復元」『中央ユーラシアにおける民族文化と歴史像』、26頁
  5. ^ 赤坂「トカ=テムル裔の系譜情報の復元」『中央ユーラシアにおける民族文化と歴史像』、9-11頁
  6. ^ 赤坂「トカ=テムル裔の系譜情報の復元」『中央ユーラシアにおける民族文化と歴史像』、8,33頁
  7. ^ a b 『中央ユーラシアを知る事典』、559頁

参考文献

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  • 赤坂恒明「トカ=テムル裔の系譜情報の復元」『中央ユーラシアにおける民族文化と歴史像』収録(黒田卓、高倉浩樹、塩谷昌史編, 東北大学東北アジア研究センター, 2003年9月)
  • 川口琢司「キプチャク草原とロシア」『中央ユーラシアの統合』収録(岩波講座 世界歴史11, 岩波書店, 1997年11月)
  • 『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社, 2005年4月)