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トクト (カンクリ部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トクト1272年 - 1327年)は、大元ウルス中期の重臣。モンゴル帝国によって滅ぼされたカンクリ部王族の出身であった。

元史』などの漢文史料では脱脱(tuōtuō)と表記される。ただし、元代には同名の人物が多いため、『元史』及び『新元史』では「康里脱脱(カンクリのトクト)」ととして立伝されている。

概要

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生い立ち

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トクトの先祖は中央アジアの遊牧部族であるカンクリ部の王族であった。トクトは母に連れられて東方に移住したイェイェ(牙牙)の6人の息子の一人で、兄にシバウチ軍団を率いて著名となったアシャ・ブカがいる。 トクトは幼い頃、兄のオトマンとともに燕南で狩猟を行って得た成果をクビライに献上した際に、「後日大いに用いられる才能の持ち主である」と評されたという。そこでトクトはケシクテイ(宿衛)に入り、オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の即位後は北方に駐屯するバヤンにオルジェイトゥ・カアンの代理として名鷹を下賜する役目を務めた。この時、バヤンも「汝に比する者は未だ見たことはない」とトクトを高く評価したと伝えられる[1]

1299年(大徳3年)、前年にモンゴル高原駐屯軍がドゥア率いる軍団に大敗したことを受け、皇族のカイシャンが新たに北方に派遣されることになった。トクトもカイシャンに従ってモンゴル高原に駐屯し、1301年(大徳5年)のテケリクにおける大会戦にも従軍した。この時、トクトは自ら敵将を一人討ってカイシャンに献上している。戦況は敵軍に有利であり、カイシャンは自ら前線に出て指揮を執ろうとしたが、トクトがカイシャンの轡を掴んでこれを留め、怒ったカイシャンが手を鞭で打っても離さなかった。最終的に負傷したカイドゥが撤退したことで戦闘は痛み分けに終わり、戦後にカイシャンは大将のドゥルダカに上記の一件を話した。これに対してドゥルダカは「軍中の太子というものは身体の中で首に相当するものであり、不慮の事態があれば配下の者達はよるべを失います。トクトの諌言は忠義というべきでしょう」と評し、これを受けてカイシャンもトクトの行為を認めるようになったという[2]

武宗の擁立

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オルジェイトゥ・カアンが1307年(大徳11年)に亡くなった後、自らの権力を失うことを恐れた皇后のブルガン・カトンは右丞相のアグタイや諸王メリク・テムルと組んで安西王アナンダを次の皇帝に擁立しようと企てた。これに対し、左丞相のハルガスンはブルガン・カトンと対抗してカイシャンを擁立しようとしており、カイシャンの部下であるトクトを使者として派遣しようとしたが、カンクリ部のジルカランらが通政院の地位を利使用してモンゴル高原との使者のやり取りを妨げようとした[3]。この時、トクトの兄のアシャ・ブカは兼両城兵馬都指揮使事の地位にあり、アシャ・ブカの計らいによってトクトは無事モンゴル高原のカイシャンの下に赴くことができた[4]

一方、より近くにいたカイシャンの弟のアユルバルワダはカイシャンよりも先に大都に至り、アシャ・ブカを含む支持者と共にブルガン・カトンらに対してクーデターを実施した。これによってブルガン・カトン一派は捕縛処刑されアユルバルワダ一派が実権を握ったものの、今度はアユルバルワダ一派と北方で強大な武力を有するカイシャンとの関係が微妙となった。特にカイシャン・アユルバルワダ兄弟の生母であるダギは長年共に生活していたアユルバルワダを偏愛しており、陰陽家による「重光大荒落(辛巳、カイシャンの生年)は災あり、旃蒙作噩(乙酉、アユルバルワダの生年)は長久をなす」という言葉を理由に、近臣の朶耳を派遣して暗にカイシャンに即位を辞退するようほのめかした。これを聞いたカイシャンは当初黙然としたが、やがてトクトを呼び出し「我は辺境で勤労すること10年にして、序列としても年長であり、神器(帝位)が我に帰する所、明らかで疑いようもない。今太后は陰陽家の言を信用されているが、天道は茫漠たるもので誰かが予知できるものではない。我が即位した後、トクトよ、汝は我のためアユルバルワダ一派の下に往き情勢を見極め、疾く戻り我に報ぜよ」と命じた。これを受けてトクトが出発した後、カイシャン自身も西道より南下を始めた。同時に腹心の部下である按灰が中道から、チョンウルが東道からそれぞれ同時に南下し、各々1万の精鋭兵を率いていたという[5]

先行してダギの下に至ったトクトがカイシャンの言葉を伝えた所、 太后は愕然として「先に伝えた言葉は確かに術家(陰陽家)に由来するものであるが、あくまで太子のためを思う我が深い愛から出たものである。ブルガン・カトン一派は既に除かれ、宗王・大臣の議も既に定まっているのに、何故カイシャンはすぐにこちらに来ないのか」 と語った。これに対し、クーデターの成功に寄与したチャガタイ家出身のトレらはみな「臣下として君主を推戴する以上、二心はありません」と述べ、ダギとアユルバルワダもこれに同意してカイシャンを擁立することに異論はないと述べた。トクトはこれを聞き、カイシャンの下に戻りダギとアユルバルワダの真意を伝えることを申し出た[6]

これより先、ダギ・アユルバルワダはアシャ・ブカをカイシャンの下に派遣していたが、続けてトクトも同様にカイシャンの下に向かった。トクトはオングチャド(後の中都造営地)でカイシャンに見え、ダギ・アユルバルワダの言葉を伝えた。ここに至りカイシャンはダギらを信じるようになり、アシャ・ブカを派遣して即位の意思を伝えた。そこでアユルバルワダらは上都でカイシャンを迎え、ここにカイシャンは武宗クルク・カアンとして即位し、太后ダギは皇太后に、アユルバルワダは皇太子とされた。これら3宮(カイシャン・ダギ・アユルバルワダ)の衝突を避け、平和裏にカイシャンが即位するに至ったのはアシャ・ブカとトクト兄弟の功績が大きいと評されている[7]

カイシャンの治世

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またこの頃、長年大元ウルスと対立してきたカイドゥの息子のチャパルが投降し、これを迎え入れたクルク・カアンは大庭で祝宴の席を設けた。モンゴル帝国の伝統に宴席の場で皇帝の近臣が王度を宣言し告戒するというものがあり、クルク・カアンはこの役目をトクトに任せた。トクトはジスン衣を着た諸王大臣が並ぶ中で、「西北諸藩(カイドゥら諸王)」がいかに大元ウルスと対立し、最後には投降するに至ったかを明晰に論じ、聴者は皆聞き入ったという。この後、同知枢密院事から中書平章政事の地位に進み、更に江南行台御史大夫の地位を授けられた。トクトはクルク・カアンの朝廷において「知りて言わざるなく、言いて行せざるなし」と呼ばれたように有言実行の人として知られ、 中外から賢相と称えられたという[8]

1310年(至大3年)にはクビライの時代以来に尚書省が設置され、トクトは尚書省の右丞相に抜擢された。この頃、同じくカイシャンの側近であるサンバオヌがカイシャンの子を新たに皇太子に立てるよう進言し、柳林で狩猟を行っていたトクトもこの件について議論するため召喚された。そもそも、カイシャンが即位する際にブルガン・カトン一派の策謀を阻止した功績を考慮してアユルバルワダが皇太子に任命されており、アユルバルワダが即位した後はカイシャンの子を皇太子とするという取り決めがなされていた。トクトはこの取り決めを敢えて破るのは国の秩序を乱すことであるとして反対し、結局はトクトの意見が通ってサンバオヌの提案は退けられることになった[9]

カイシャンの治世は諸王・功臣に対する無節制な「パラマキ」を行ったことで知られ、このために財政は悪化し名爵は濫発されて価値を低下させた。トクトはこのような状況を踏まえ、「爵位を与えるということは、帝王が人を用いるために行うことです。今の爵位は功績がない者にも与えられていますが、このような者がいざ緊急の時に頼りになりましょうか?(尚書省再設置以前の)中書省は銭糧・工役・選法・刑獄等12事を掌っていました。もし臣下の進言に従ってくださいますならば旧制を遵守してくださいますよう願います」と上奏した。これにより、際限ない支出や爵位の濫発は留められたという。ある時、チャガタイ家のノム・クリが配下の者から無軌道であると告発を受けた時、トクトはその告発を退けて告発者を罪にあてた。またトルイ家のヤクドゥが部民をカサル家当主の斉王バブシャの配下から徴発するという事件が起こると、隣接する諸王がバブシャとともにヤクドゥを攻めようとした。バブシャ自身は事態が悪化することを恐れてこの全てに反対していたが、結局朝廷には「斉王バブシャが叛乱を起こした」 との報告がなされるに至った。しかしトクトは経緯を詳しく調べた上でバブシャには罪がないと判断し、一方でヤクドゥを攻めようとした諸王はモンゴル高原から長城以南に強制的に移住させるという措置を取った[10]

また、モンゴル高原に駐屯するトゴチが宗王チュカンの軍団に新たに1万の兵を増員するよう要請した時、朝廷はトクトを派遣してその資材・装束を準備させようとした。しかしトクトは今やカイドゥの国も滅びて辺境は安定しており、あえて問題を起こすようなことをすべきでない、と述べてこの要請を退けた。そこで丞相トゥクルクが代わりに派遣されることになったという[11]1311年(至大4年)正月には中書左丞相に任命されたが、それから間もなくクルク・カアンは急死してしまった。 クルク・カアン政権に批判的であったアユルバルワダ車による暗殺ではないかと考えられている[12]

晩年

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クルク・カアンの没後に仁宗ブヤント・カアンとして即位したアユルバルワダはクルク・カアンの側近であったトクトを遠ざけようと、同年2月に江浙行省左丞相に任命した。江浙に赴任したトクトはまず現地の父老に現況を尋ねたところ、皆が「かつて杭州は水運で賑わっていたが、土砂の堆積により船で通行できない箇所が増え困っている」旨を訴えた。この訴えに難色を示す者もいたが、トクトは訴えを取り上げてこれを改善するよう取り組んだという[13]

この頃、朝廷ではダギの信任を得たテムデルが丞相として権勢を振るい、クルク・カアン即位時の取り決めであった「アユルバルワダが即位した後は、クルク・カアンの息子(コシラ)を皇太子とする」という約束を反故にしブヤント・カアンの息子(シデバラ)を皇太子にしようとした。コシラは周王に封ぜられて雲南地方に追いやられ、トクトもクルク・カアンの側近であったことを理由に拘禁され、朝廷に連行された。首都に到着して数日して、チョンウルやシレムンらが両宮より「当初汝を疑って召喚したが、 今汝が無実であることが分かったため、帰還しても良い」旨を伝えた。そこでトクトは江浙行省に帰還したものの、それから間もなく江西行省左丞相に転任となった[14]

その後、ブヤント・カアンが没して皇太子シデバラが英宗ゲゲーン・カアンとして即位すると、トクトは中央に呼び戻されて御史台の長である御史大夫に任命された。前任者である帖赤がこれを嫁んで江南御史大夫に左遷しようと企んだこともあったが、帖赤が伏誅されたことによってトクトは難を免れた。しかし、この頃からトクトは出仕をやめ、家居すること5年、1328年(泰定5年)に56歳にして亡くなった[15]。息子はバアトル、テムル・タシュ、オズグル・トカ、タシュ・テムル、カダ・ブカ、アルグ・テムル、トレら9人いたが、この内テムル・タシュとタシュ・テムルは後にウカアト・カアンの宮廷で高官に至った[16]

カンクリ部クリシュ家

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  • クリシュ(Quriš >虎里思/hǔlǐsī)
    • キシリク(Kišilig >乞失里/qǐshīlǐ)
      • クルク(Külüg >曲律/qūlǜ)
      • イェイェ(Yeye >牙牙/yáyá)
        • ブベセル(Böbeser >孛別舎児/bóbiéshèér)
        • ホチキ(Hočiki >和者吉/hézhějí)
        • ブベク(Böbek >不別/bùbié)
        • オトマン(Otoman >斡禿蛮/wòtūmán)
        • アシャ・ブカ(Aša buqa >阿沙不花/āshā bùhuā)
        • トクト(Toqto >脱脱/tuōtuō)
          • バアトル(Ba’atul >覇都/bàdōu)
          • テムル・タシュ(Temür taš >鉄木児塔識/tiěmùér tǎshì)
          • オズグル・トカ(Ozghur toqa >玉枢虎児吐華/yùshūhǔértǔhuá)
            • バアトル(Ba’atul >抜都児/yùshūhǔértǔhuá)
              • オルジェイ・テムル(Öljei temür >完者帖木児/ālǔhuī tièmùér)
            • ネウリン(Neülin >紐璘/niŭlín)
          • タシュ・テムル(Taš temür >達識帖睦邇/dáshì tièmùěr)
          • カダ・ブカ(Qada buqa >哈不花/wòtūmán)
          • アルグ・テムル(Aruγ temür >阿魯輝帖木児/ālǔhuī tièmùér)
          • トレ(Töre >脱烈/wòtūmán)
            • 長寿安
        • カダ・テムル(Qada temür >哈達帖木児/hādá tièmùér)
          • 万僧
        • オンギャヌ(汪家閭/wāngjiālǘ)
          • ボロト・テムル(Bolod temür >博羅帖木児/bóluó tièmùér)

脚注

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  1. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「康里脱脱、父曰牙牙、由康国王封雲中王、阿沙不花之弟也。脱脱姿貌魁梧、少時従其兄斡禿蛮猟於燕南、斡禿蛮使帰献所獲、世祖見其骨気沈雄、歩履荘重、歎曰『後日大用之才、已生於今』。即命入宿衛。成宗初、丞相伯顔在北鄙、脱脱奉詔以名鷹賜伯顔。伯顔見之、驚問曰『汝為何人子』。脱脱以実対、伯顔語之曰『吾老矣、他日可大用者、未見汝比』」
  2. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「大徳三年、武宗以皇子撫軍北鄙、脱脱従行。五年、叛王海都犯辺、脱脱従武宗討之。師次杭海、進撃海都、大破其衆、脱脱手斮一士之首、連背胛以献、武宗壮之。兵之始交也、武宗鋭欲出戦、脱脱執轡力諌、武宗怒、揮鞭抶其手、不退、乃止。已而武宗与大将朶児答哈語及之、朶児答哈曰『太子在軍中、如身有首、如衣有領、脱有不虞、衆安所附。脱脱之諌可謂忠矣』。武宗深然之」
  3. ^ 宮2018,746頁
  4. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「成宗大漸、丞相哈剌哈孫答剌罕称疾臥直廬中。脱脱適以使事至京師、即俾馳告武宗以国恤、語在阿沙不花伝」
  5. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「時仁宗奉興聖太后至自懐孟、既定内難、而太后以両太子星命付陰陽家推算、問所宜立者、曰『重光大荒落有災、旃蒙作噩長久』。重光為武宗年干、旃蒙為仁宗年干。於是太后頗惑其言、遣近臣朶耳諭旨武宗曰『汝兄弟二人皆我所出、豈有親疏。陰陽家所言運祚修短、不容不思』。武宗聞之、黙然、進脱脱而言曰『我捍禦辺陲、勤労十年、又次序居長、神器所帰、灼然何疑。今太后以星命休咎為言、天道茫昧、誰能豫知。設使我即位之後、所設施者上合天心、下副民望、則雖一日之短、亦足垂名万年、何可以陰陽之言而乖祖宗之託哉。此蓋近日任事之臣、擅権専殺、恐我他日或治其罪、故為是奸謀動揺大本耳。脱脱、汝為我往察事機、疾帰報我』。脱脱承命即行。武宗親率大軍由西道進、按灰由中道、牀兀児由東道、各以勁卒一万従」
  6. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「脱脱馳至大都、入見太后、道武宗所授旨以聞。太后愕然曰『修短之説雖出術家、為太子周思遠慮乃出我深愛。貪憝已除、宗王大臣議已定、太子不速來何為』。時諸王禿列等侍、咸曰『臣下翊戴嗣君、無二心者』。既而太后・仁宗屏左右、留脱脱与語曰『太子天性孝友、中外属望。今聞汝所致言、殆有讒間。汝帰速為我弥縫闕失、使我骨肉無間、相見怡愉、則汝功為不細矣』。脱脱頓首謝曰『太母・太弟不煩過慮、臣侍藩邸歴年、頗見信任、今帰当即推誠竭忠以開釈太子。後日三宮共処、靡有嫌隙、斯為脱脱所報効矣』」
  7. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「先是、太后以武宗遅廻不至、已遣阿沙不花往道諸王群臣推戴之意。及是脱脱継往、行至旺古察、武宗在馬轎中望見其来、趣使疾馳、与之共載。脱脱具致太后・仁宗之語、武宗乃大感悟、釈然無疑。遂遣阿沙不花還報。仁宗即日命駕奉迎于上都。武宗正位宸極、尊太后為皇太后、立仁宗為皇太子、三宮協和、脱脱兄弟之力為多」
  8. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「脱脱之至京師也、武宗嘗命其同知枢密院、比還、問曽視事否、脱脱対曰『今正殿未御、宗親未見、為扈従之臣攙取名位、誠恐有累聖徳、是以未敢祗事』。武宗嘉歎久之。知枢密院只児哈忽在潜邸時嘗有不遜語、将置于法、脱脱諌曰『陛下新正位、大信未立而輒行誅戮、知者以為彼自有罪、不知者以為報仇、恐人人自危。況只児哈忽習於先朝典故、今固不可少也』。乃宥之。継海都而王者曰察八児、素服武宗威名、至是率諸王内附、詔特設宴於大庭。故事、凡大宴、必命近臣敷宣王度、以為告戒。脱脱薦只児哈忽、令具其言以進、果称旨。武宗歎曰『博爾忽・博爾朮前朝人傑、脱脱今世人傑也』。即以所進之言授脱脱。及諸王大臣被宴服就列、脱脱即席陳西北諸藩始終離合之由・去逆効順之義、辞旨明暢、聴者傾服。自同知枢密院事進中書平章政事、拝御史大夫。遷江南行台御史大夫。尋召拝録軍国重事・中書左丞相。脱脱知無不言、言無不行、中外翕然称為賢相」
  9. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「至大三年、尚書省立、遷右丞相。三宝奴等勧武宗立皇子為皇太子。脱脱方猟于柳林、遣使亟召之還。三宝奴曰『建儲議急、故相召耳』。脱脱驚曰『何謂也』。曰『皇子寖長、聖体近日倦勤、儲副所宜早定。』脱脱曰『国家大計不可不慎。曩者太弟躬定大事、功在宗社、位居東宮、已有定命、自是兄弟叔姪世世相承、孰敢紊其序者!我輩臣子、於国憲章縦不能有所匡賛、何可隳其成』。三宝奴曰『今日兄已授弟、後日叔当授姪、能保之乎』。脱脱曰『在我不可渝、彼失其信、天実鑑之』。三宝奴雖不以為然、而莫能奪其議也」
  10. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「是時、尚書省賜予無節、遷叙無法、財用日耗、名爵日濫。脱脱進言曰『爵賞者、帝王所以用人也。今爵及比徳、賞及罔功、緩急之際何所頼乎。中書所掌、銭糧・工役・選法・刑獄十有二事。若従臣言、恪遵旧制、則臣願与諸賢黽勉従事。不然、用臣何補』。遂有詔俾濫受宣勅者赴所属繳納。僥倖之路既塞、奔競之風頓衰。中台有贓罰鈔五百万緡、脱脱請出以賑孤寡老疾諸窮而無告者。宗王南忽里部人告其主為不軌、脱脱辯其誣、抵告者罪。宗王牙忽禿徴其旧民於斉王八不沙部中、隣境諸王欲奉斉王攻牙忽禿、斉王懼奔牙忽禿以避之、遂告斉王反。脱脱簿問得実、乃釈斉王而徙諸王于嶺南」
  11. ^ 杉山2004,341頁
  12. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「辺将脱火赤請以新軍万人益宗王丑漢、廷議俾脱脱往給其資装。脱脱謂時方寧謐、不宜挑変生事、辞不行。遂遣丞相禿忽魯等二人往給之、幾以激変。四年正月、復為中書左丞相」
  13. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「仁宗即位、眷待弥篤、欲使均逸于外、二月、拝江浙行省左丞相。下車、進父老問民利病、咸謂杭城故有便河通于江滸、堙廃已久、若疏鑿以通舟楫、物価必平。僚佐或難之、脱脱曰『吾陛辞之日、密旨許以便宜行事。民以為便、行之可也』。俄有旨禁勿興土功、脱脱曰『敬天莫先勤民、民蒙其利則災沴自弭、土功何尤』。不一月而成」
  14. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「是時、鉄木迭児為丞相、欲固位取寵、乃議立仁宗子英宗為皇太子、而明宗以武宗子封周王、出鎮于雲南。又譖脱脱為武宗旧臣。詔逮至京師。居数日、牀兀児・失列門伝両宮旨諭脱脱曰『初疑汝親於所事、故召汝。今察汝無他、其復還鎮』。脱脱入謝太后曰『臣雖被先帝知遇、而受太后及今上恩不為不深、豈敢昧所自乎』。還江浙。未幾、遷江西行省左丞相」
  15. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「英宗嗣位、召拝御史大夫。時帖赤先為大夫、陰忌之、奏改江南行台御史大夫。復嗾言者劾其擅離職守、将徙之雲南、会帖赤伏誅、乃解。家居不出者五年。泰定四年薨、年五十六。至正初、贈推誠全徳守義佐運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封和寧王、諡忠献」
  16. ^ 『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「脱脱嘗即宣徳別墅延師以訓子、郷人化之、皆向学。朝廷賜其精舎額曰景賢書院、為設学官。其没也、即其中祠焉。子九人、其最顕者二人曰鉄木児塔識、曰達識帖睦邇、各有伝」

参考文献

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  • 片山共夫「元朝の昔寶赤について:怯薛の二重構造を中心として」『九州大学東洋史論集』10、1982年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻138列伝25康里脱脱伝
  • 新元史』巻200列伝97康里脱脱伝