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トク・テムル (スルドス部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トク・テムルモンゴル語: Toq temür至元2年1月3日1265年1月21日) - 至正4年12月28日1345年1月31日))は、14世紀前半に大元ウルスに仕えたスルドス部出身の領侯。字は可与。

元史』には立伝されていないが、『金華黄先生文集』巻35遜都台公墓誌銘にその事蹟が記され、『新元史』には遜都台公墓誌銘を元にした列伝が記されている。「孫都思氏世勲之碑」における漢字表記は脱帖穆耳(tuōtièmùěr)。

概要

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トク・テムルの一族は「四駿四狗」と讃えられた建国の功臣のチラウンの子孫であるが、『元史』や『集史』に言及がなく「遜都台公墓誌銘」にのみその事跡が記されている。「遜都台公墓誌銘」によると、チラウンの息子の一人でビチクチ(書記官)を務めていたのがトク・テムルの祖父のナドルで、その息子が随州軍民ダルガチを務めたチャラン、その息子がウクナであった。

トク・テムルは勲臣の一族であることから若くしてケシクテイ(親衛隊)に仕え、大徳10年(1306年)には武徳将軍・蘄県万戸府東平等処管軍上千戸所のダルガチに任じられた。延祐2年(1315年)に宣武将軍、泰定3年(1326年)には明威将軍に昇格となり、30年近くに渡ってダルガチの職を大過なく務めた[1]

南宋の初めごろ、蔡定という人物の父親が投獄され、釈放代を払えない蔡定は不孝な身を恥じて河に身を投げるという事件があった。これを聞いた郡守は蔡定の父を釈放させ、蔡定の孝を讃えて廟を臥龍山の麓に建て、「愍孝」という額を立てていた。ところが、モンゴルが南宋を平定したころには廟は整備する者もなく荒れ果てており、これを知ったトク・テムルは官にはたらきかけて廟を復興させたという[2]

また、モンゴル軍が南宋を平定したころ、モンゴル兵の捕虜となった王氏という婦人が辱めを受けないため、清風嶺という地で自らの血で石上に詩を書いて崖に身を投げたという逸話があった。トク・テムルはまたこの婦人のためにも廟を設立しさせた。このように、漢人社会に溶け込んで儒教的価値観に基づいた行動を取ったトク・テムルは多くの者から尊敬を受けた。「遜都台公墓誌銘」によると、トク・テムルは至元2年正月3日(1265年1月21日)生まれで、至正4年12月28日(1345年1月31日)に84歳で亡くなったという[3]。息子のオルク・ブカは父の影響を受けて学問に邁進し、科挙に及第して大元ウルス末期の朝廷に仕えた。

スルドス部ソルカン・シラ家

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脚注

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  1. ^ 『金華黄先生文集』巻35遜都台公墓誌銘,「公諱脱帖穆耳、字可与、系出蒙古遜都台氏。……公以勲旧家子、蚤備宿衛。大徳十年、用台臣薦、佩金符、為武徳将軍、蘄県万戸府東平等処管軍上千戸所逹魯花赤。延祐二年、遷宣武将軍。泰定三年、転明威将軍、分城坐鎮自明而越。前後三十餘年、以老致其事。公性至孝、陳留府君之為湖南憲長有徳於民其没也。相与絵像而祠焉。公不遠数千里求遺像、以帰事之如生存搢紳先生皆以詩文美之。公於人有善称歎不容口有不善則為之不懌終日至戟手怒罵之。其善善悪悪亦天性然也」
  2. ^ 『金華黄先生文集』巻35遜都台公墓誌銘,「宋南渡初越人蔡定父年七十餘、以事繋獄、法当贖而吏持不可請以身代、又不報乃自沈於府河以死。郡守為出其父、且給槥以葬嗣為郡者、立廟臥龍山之麓、請勅額号『愍孝』。歳久、廟廃而居民侵其地、官不之省。公摂万戸府事慨然曰『孝子不祀人奚以勧会使者行部亟以為言。使者顧謂守令曰『承宣風厲、郡県責也』。若等寧無恧乎即日使帰其侵地、廟以復完」
  3. ^ 『金華黄先生文集』巻35遜都台公墓誌銘,「国朝取宋之兵、至天台、民婦王氏為軍士所得、自誓不辱、至剡之清風嶺、齧指出血題詩石上、投崖而死。公移文有、同為立廟、迄今不廃。剡有隠士呉君与公友善嘗謂、吾死得附葬於二戴無憾矣。逮其既卒貧不能喪公輟俸貲倡郷人葬於書院之側。其好義又如此。公為人廉介質直、不喜紛華、講閲之暇日与賢士大夫游清言雅論亹亹不倦懸車之後、養高城南闢斎閤懸弓剣著壁間聚古今図書、布列左右延名師教其子毎遇風日清美輙緩轡郊外徜徉竟日或幅巾藜杖命家童抱琴自随散歩閭巷間稚耋迎笑扶擁而娭亦不拒也。礼部侍郎泰不花出守越作新学校、行郷飲酒礼、迎致公居僎輔。公升降拝起不愆於儀、人皆望而敬之。公生於至元二年正月三日、卒於至正四年十二月二十八日。享年八十有四」

参考文献

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  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 新元史』巻121列伝18
  • 蒙兀児史記』巻38列伝10